カタコンブにちなむ出来事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 09:08 UTC 版)
「カタコンブ・ド・パリ」の記事における「カタコンブにちなむ出来事」の解説
1788年8月28日から29日にかけて、グレーヴ広場、オテル・ド・ブリエンヌ、メスレ通りで発生した暴動の死者の亡骸は、カタコンブに収容された。 カタコンブには600万人のパリ市民の骨が埋葬されているが、そこにはフランス史上の著名人も含まれる。しかし彼らの遺骨は名もない数百万のパリ市民の遺骨と一緒くたにされており、現在まで特定できていない。 採石場総監であったシャルル=アクセル・ギヨモは、1807年にサント・カトリーヌ墓地に埋葬されたが、その後、遺骨はカタコンブに移された。フランス史上の著名人の一部は、カタコンブの納骨堂を最後の休息の地としている。ルイ14世の財務卿であったニコラ・フーケは、死後フィーユ・ド・ラ・ヴィジタション・サント・マリー修道院に埋葬されたが、1793年にカタコンブへ移された。大臣コルベールの遺骨は革命に逆らい、サン・ユスタシュ教会の金庫に隠されていたが、のちにカタコンブへ移された。 王政復古期にエランシ墓地(en)の道路拡張工事のために掘り出された骨はやはりカタコンブへ移された。エランシ墓地には革命でギロチンで処刑されたジョルジュ・ダントン、カミーユ・デムーラン、アントワーヌ・ラヴォワジェ、マクシミリアン・ロベスピエールが埋葬されていた。同様に、ロラン夫人、デュ・バリー夫人他、マドレーヌ墓地(fr)に埋葬された人々の遺骨は後に墓地の閉鎖に伴って、カタコンブに移送されている。 カタコンブの壁は18世紀からの落書きに覆われている。ヴィクトル・ユーゴーは『レ・ミゼラブル』の中でパリ地下のトンネル・システムに関する知識を用いている。 1871年のパリ・コミューンでは、カタコンブの一室でコミューン側が君主制主義者グループを殺害している。 第二次世界大戦中、レジスタンスに加わっているパリ市民は地下のトンネル・システムを利用していた。ナチス・ドイツ占領下のパリでは、ドイツ兵士たちは、パリ6区のリセ・モンテーニュの地下にあるカタコンブに地下ブンカーを築いていた。
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