カザン陥落とタタールに対する抑圧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 03:02 UTC 版)
「カザン」の記事における「カザン陥落とタタールに対する抑圧」の解説
「ロシア・カザン戦争」も参照 1552年の9月から10月、ロシア・ツァーリ国のイヴァン4世(雷帝)は15万の兵力でカザンを包囲し(カザン包囲戦(英語版))、砲撃と攻城戦の末、ついにカザンを占領してカザン・ハン国を屈服させた。住民の多くは虐殺され市街地も城塞もすべて破壊された。カザン陥落の功労者でもある将軍アレクサンドル・ゴルバーチイ=シュイスキー(英語版)(Алекса́ндр Бори́сович Горба́тый-Шу́йский)がカザン総督となると、ハン国時代からのタタール人住民は殺されたり鎮圧されたりキリスト教への改宗を迫られたりした(カザンの反乱(英語版))。タタール人は結果的にカザンを追放されて50キロメートル離れた場所に移住させられ、代わりにロシア人の農民や兵士が入植させられた。大土地所有者であったタタール人貴族や大きなモスクも滅ぼされるか追放され、代わりにロシア人が大地主となった。16世紀後半にエルモゲン(ゲルモゲン)がカザン大主教となった時期の正教化政策もモスクやマドラサに打撃を与えた。一方でタタール人兵士や貴族の中にはロシアに仕えて独自の地位を18世紀まで保持した者もいたが(勤務タタール、タタール語: йомышлы татарлар : Yomışlı Tatarlar; ロシア語: Служилые татары)、彼らも城内に住むことはできず、市壁の外側の集落(Bistäse)に住んだ。後にはタタール人の商人や職人もここに住み、タタール人街を形成した。プスコフからの職人たちが呼ばれ、カザンの城塞跡に現在のカザン・クレムリンが建設された。 カザンでは何度も大火災が起きて市街地が破壊された。1579年の大火の後には「カザンの生神女」のイコンが市内の地下から発見されている。このイコンは後に神聖なものとされ、モスクワやサンクトペテルブルクをはじめロシア国内各地に「カザンの生神女」イコンに捧げられたカザン大聖堂が建てられている。ボリス・ゴドゥノフがツァーリになった時代、ロシアが大動乱と呼ばれる内戦と混乱に落ち込むと一時的にカザン・ハン国は独立を取り戻すが、1612年にクジマ・ミーニンの国民軍により鎮圧された。
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