カザン県とプガチョフの乱
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カザン庁(приказ Казанского дворца)が管轄していたカザン・ハン国は1708年には正式に廃止され、カザン県が代わりに置かれてカザンがその県都となり、カザン・クレムリン内には知事公邸、行幸御殿、軍司令官官舎など行政・軍事・宗教の中枢が立ち並んだ。ピョートル1世のカザン訪問後、ロシア海軍のカスピ海艦隊の造船所がカザンに建設されることになった。プーシキン以前の大詩人であるガヴリーラ・ロマーノヴィチ・デルジャービンは1743年にタタールの末裔である貧しい郷士の息子としてカザンに生まれた。デルジャービン自身はロシア人としてのアイデンティティを持ち、ロシア文学の歴史に大きく貢献している。 エカチェリーナ2世の時代にあたる1774年7月12日、カザンはドン・コサックのエメリヤン・プガチョフが率いる農民や辺境守備兵らの反乱軍によって包囲され、皇帝軍は敗れ市街地は破壊・略奪された。しかしカザン・クレムリンは陥落せず、その日の夕方に皇帝軍の増援が到着し、7月13日から15日にかけての戦いでプガチョフの軍は大敗を喫した。これがプガチョフの乱の転換点になったカザンの戦いである。エカチェリーナ2世はカザン市街を再建し、同時にそれまで禁じられていたモスク建設を許可した。マルジャーニー・モスクがこの時に建設された最初のモスクである。タタール人商人もエカチェリーナ2世の庇護の下で活動を活発にし、ロシアと中央アジア間での商取引を掌握した。タタール商人の中心の一つであるカザンは物資の集散地として栄えた。しかしタタール人の文化や宗教に対する抑圧はなおも続いた。
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