オフィール伝説と初期のずさんな調査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 23:39 UTC 版)
「グレート・ジンバブエ遺跡」の記事における「オフィール伝説と初期のずさんな調査」の解説
1860年代にはグレート・ジンバブエ遺跡の起源について全く誤った仮説が立てられていた。南アフリカのトランスヴァールで活動していたドイツ人宣教師A.メレンスキーなどは、ショナ族居住地にあるという巨大な遺跡についてソロモン王を訪ねた「シバの女王国」の首都オフィールに違いないと考え、同国人の若い探険家カール・マウフにそのことを伝えた。マウフは1871年、現地を訪れてグレート・ジンバブエ遺跡を発見し、「アクロポリス」をモリヤ山上、すなわち現エルサレムのソロモン神殿を模倣したもので、グレートエンクロージャーはシバの女王がエルサレムにいた時に住んでいた宮殿を模したものだと報告した。その根拠として遺跡で採集した木材片にレバノン杉の匂いがあるので、古代フェニキア人かユダヤ人がこの遺跡を築いたのだと主張した。 ケープ植民地の政治家セシル・ローズは、1890年、イギリス政府の保証のもとに私財を投じて当時マショナランドと呼ばれた現ザンビアと現ジンバブエ共和国の範囲にあたる地域を占領し、自分の名にちなんで「ローデシア」と命名した。セシル・ローズは、近東地域の研究家といわれ、考古学者を名乗っていたジェームズ・セオドア・ベント (James Theodore Bent) にグレート・ジンバブエの調査を行わせた。ベントは、グレートエンクロージャーの大円錘塔がフェニキアの貨幣に刻まれた「神殿」に似ていることなどから、鳥の石柱やこのような「神殿」を築いたのはアラビア文化を担う人々であって、グレート・ジンバブエはアラビアにもたらされた黄金の鉱山の一つに違いないと主張した。そして現在Q方式と呼ばれる丁寧に築かれた石積みは、西アジア人によるものだと主張した。 ベントの仕事を引き継いだのは当時のローデシア在住のジャーナリスト、リチャード=ホール (Richard Nicklin Hall) であった。彼は西アジア由来の遺物を探すために、グレートエンクロージャーなどの遺物包含層を徹底的に掘り返し、乱掘によって遺跡を大規模に破壊した。そして古代西アジア人による繁栄とイスラム教徒のアラブ・スワヒリ人による再興、そしてアフリカ人による退廃期という三段階の歴史的変遷が遺跡の調査で分かったと多数の著作で論じた。しかし彼は、グレート・ジンバブエがアフリカ人によるものであることを示す土器などをはじめとする生活用具には目もくれずに土砂と一緒に捨てたことまで著書に記述したので、その調査の杜撰さに密かに疑問をいだく考古学者もいた。
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