オハイオ川を下るクラークの旅
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「イリノイ方面作戦」の記事における「オハイオ川を下るクラークの旅」の解説
兵士が合流するための時間に遅れることが続いた後、クラークは約150人の兵士と共に1778年5月12日に船でレッドストーンを離れた。兵士はボーマン、ヘルム、ハロード各隊長の下に3個中隊に編成されていた。ケンタッキーのフォールズ・オブ・ザ・オハイオで、スミス少佐が連れてくるホルストンの兵士200名と落ち合えると期待していた。クラーク隊と共に、ケンタッキーに入植するために約20家族が従った。 オハイオ川を下る旅の途中、クラーク隊は大陸軍西方方面軍指揮官エドワード・ハンド将軍が手配していた物資をピット砦とヘンリー砦で受け取った。ランドルフ砦(現在のウェストバージニア州ポイントプレザント)には、そこがインディアン戦士隊に攻撃された直後に到着した。この砦の指揮官は襲撃者追撃のためにクラーク隊の援助を求めたが、クラークは時間が無いと考えてこれを辞退した。 クラークはフォールズ・オブ・ザ・オハイオに近付いたときに、上流のスミス少佐に伝令を送り、落ち合うときになっていると伝えさせた。しかし間もなく、スミスに頼んだ4個中隊ではなく、ディラード大尉の下に中途半端な中隊1個のみがケンタッキーに到着したことを知った。そこでクラークは、ケンタッキー民兵隊の上官であるジョン・ボーマン大佐に伝言を送り、ディラード隊と他に徴兵できる兵士誰でもをフォールズ・オブ・ザ・オハイオまで送ってくれるよう依頼した。 クラークの小さな船隊は5月27日にフォールズ・オブ・ザ・オハイオに到着した。急流の中の小さな島、後にコーン島と呼ばれた地にベースキャンプを設営した。ケンタッキーとホルストンで徴兵された兵士が到着すると、それらの中から20名を自隊に加え、残りはケンタッキー開拓地の防衛のために戻した。新参の兵士はジョン・モンゴメリー大尉の中隊に編入された。モンゴメリーの中隊にはサイモン・ケントンという斥候がおり、後にケンタッキーでは伝説の開拓者になった。この島にいるときに、クラークは遠征の真の目的はイリノイ地方侵略であることを明かした。このことは多くの者から熱狂的な歓迎を受けたが、ホルストンから来た者の中からはその夜脱走した者が出た。7, 8人は捕まえられ連れ戻されたが、逮捕を免れ故郷に戻った者もいた。 クラークとその士官達がカスカスキア遠征に備えて兵士を訓練する一方で、部隊とともにオハイオ川を下ってきた家族連れ開拓者はこの島に入植し、トウモロコシの苗を植えた。これら開拓者は翌年には本土に移動し、ルイビルの町となる開拓地を設立した。クラークはこの島にいる間にピッツバーグから重要な伝言を受け取った。それはフランスがアメリカ合衆国との同盟条約に調印したという報せだった。クラークはこの報せが、イリノイ地方でフランス語を話す人々との同盟を確保するために使えると期待した。
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