オイラトの征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 09:33 UTC 版)
それまで三衛を統制していたアルクタイの勢力が瓦解すると、三衛は西方・南方への進出を始めた。正統二・三年の頃には山西陝西方面に出没して明軍と紛争を起こし、正統四年以降は南方の薊遼方面にも進出を始めた。このため、明朝は正統九年(1444年)に数万の大軍を以て三衛に侵攻し、赤峰附近まで進出して帰還した。明朝と本格的に対立し始めた三衛はオイラトに助けを求めることで対抗しようとし、明朝への侵攻が一旦計画されていたが、今度は東方で三衛と女直との対立が始まったため一時延期された。勢力を拡大させゆくオイラトとその与党の三衛に危機感を抱いた海西(フルン)女直の諸衛は連合して正統九・十年(1444年-1445年)に三衛を攻め、これに対して海西女直と接する泰寧衛・福余衛が応戦した。明朝はオイラト・三衛に対抗する海西女直に好意的に接し、両者の戦いが長引くとこれを調停して戦闘は終結した。一連の戦闘によって三衛は疲弊していたが、正統十一・十二年(1446年-1447年)には盟主たるオイラトのエセンが三衛に逃げ込んでいたアルクタイの子供を討つことを名目に三衛に侵攻した。このオイラトの侵攻によって三衛は大打撃を蒙って勢力を著しく衰えさせた。この時の三衛侵掠はかなり徹底的なものであったらしく、後にエセンを弑逆したアラク・テムルはエセンの三大罪の一つとして三衛を殺戮したことを挙げている。 完全にオイラトの支配下に入った三衛は当初女直とともにエセンの傀儡ハーンであったトクトア=ブハ(タイスン・ハーン)の勢力下にあったが、タイスン・ハーンがエセンと対立し殺されると景泰二年(1451年)にエセンの直接支配下に置かれ、西方(現在のアルシャー盟方面)への移住を強制された。この後アラク・テムルがエセンを弑逆したことによってオイラト帝国は崩壊し、三衛もまた独立を回復したが、その居住地はオイラトの進出以前より大きく異なるものとなっていた。三衛の大部分はノーン河流域より南方の遼西方面に移住して以後この地域が三衛の根拠地となった。また、この時期に西方に移住した三衛の部衆の子孫が、後にオイラトのホシュート部になったと考えられている。
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