オイラト支配時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 05:01 UTC 版)
歴史書に初めて記されるヨンシエブ部の人物はエセン・タイシの時代のエセン・サマイ、ボケ・スルスンらである。『アルタン・トブチ』によると、エセンが女直遠征を行っていた頃、エセン・サマイが明朝皇帝(英宗)を捕らえる夢を見た。これをエセンに伝えたところ、エセンはもし本当に明朝皇帝を捕らえることがあればエセン・サマイにこれを与えようと約束した。後にエセンが明朝に侵攻し英宗を捕らえると約定通り英宗はエセン・サマイに与えられたが、エセンは自分がモンゴルに戻るまで明朝皇帝を捕らえた事を口外するなと言いつけた。しかし、エセンが家に帰ると母がこのことを知っており、ヨンシエブのボケ・スルスンが情報を漏らしたことを知ったエセンはボケ・スルスンを殺して木に吊した。この残虐な行為によってモンゴル(韃靼)の民の多くがエセンを見限ったという。 英宗を預かり監視していたのは『蒙古源流』ではアストのアリマン丞相、漢文史料ではバヤン・テムル(伯顔帖木児)とされるが、後述するようにアスト部とヨンシエブ部とは混同されることが多かったこと、その妻の名前アハダライ・アガ(阿撻剌阿哈)の名前が一致することなどから同一人物と見られる。後にハーンを称したエセンは部下のアラク・テムル丞相の反逆に遭い、身一つで逃れた先で飢えに苦しんでとある家を訪れた。その家の主はボケ・スルスンの未亡人で、馬乳酒を差し出したものの、相手が夫の敵であることを見抜き、後にこれを知らされたボケ・スルスンの息子バグ(ブフン)によってエセンは殺された。エセンが逃亡先で一婦人に食料を乞い、後にその家の者によって殺されたことは明朝の漢人の下にも伝わっており、当時より広く知られていた。
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