オイラト部族連合の結成
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「イェスデル」の記事における「オイラト部族連合の結成」の解説
イェスデルの治世において最も特筆すべき事件は、クビライ家の統治に不満を持つモンゴル高原西方の四部族、すなわちオイラト部族(後のホイト部)、ケレイトの末裔ケレヌート(後のトルグート部)、ナイマンの末裔チョロース(後のジューンガル)、バルグト諸部がイェスデルを戴いて後世「四オイラト(Dörben Oyirad)」と呼ばれる部族連合を結成したことであった。イェスデルがハーン位を簒奪してから間もない1391年に没するとその子のエンケがハーンとして即位したが、この頃には度重なる混乱によってハーンの権威は失墜しゴーハイ太尉やオゲチ・ハシハといったオイラト部族連合の指導者に実権は奪われていった。エンケ・ハーン以後はこれらオイラト部族連合の指導者どうしの争いも多発し、更にこの隙をついて東方ではウスハル・ハーンの遺臣たちがオゴデイ家のオルク・テムルを戴いてモンゴルを復興したため、モンゴル高原の混乱は深まった。 一方、イェスデルによりクビライ家のハーンが断たれたことから明は大元ウルスが断絶したものと捉え、オイラト部族連合のことを「瓦剌(オイラト)」、東方の復興したモンゴル部族連合を韃靼(タタール)と呼び、決して「(大)元/韃靼」とは呼称しなかった。ただし、オイラト部族連合から出たエセン・ハーン、モンゴル部族連合から出たダヤン・ハーンはそれぞれ「大元のハーン」を自称しており、モンゴル人の自意識としてはイェスデル以後も大元大モンゴル・ウルスは存続していたと考えていた。
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