エドワード6世の治世とトマス・シーモア事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 00:40 UTC 版)
「エリザベス1世」の記事における「エドワード6世の治世とトマス・シーモア事件」の解説
1547年、エリザベスが13歳の時に父ヘンリー8世が死去し、幼い異母弟のエドワード6世が即位した。母方の伯父ハフォード伯エドワード・シーモアがサマセット公爵そして保護卿(摂政)となって実権を握り、その弟のスードリー男爵トマス・シーモアは海軍卿になった。プロテスタント貴族に取り巻かれたエドワード6世は急進的なプロテスタント化政策を推し進めることになる。 ヘンリーの最後の王妃であったキャサリン・パーは程なくトマス・シーモアと再婚する。夫妻はエリザベスをチェルシーの邸宅に引き取った。ここで彼女は情緒的危機に直面し、歴史家の中にはこの事件が彼女の人生に悪影響を残したと考える者もいる。シーモアは40歳に近かったが魅力的で「強いセックスアピール」を有しており、14歳のエリザベスは、キャサリンの説得により自らの王位継承権が復活され、自身も残っている手紙の中でキャサリンを「大好きなお母様」と呼んでいたにも拘らず、シーモアと騒々しく遊び、悪ふざけをした。シーモアは寝間着姿でエリザベスの寝室に入り込んだり、馴れ馴れしく彼女の臀部を叩いたりすることもあった。ある日、キャサリン・パーが抱き合っている2人を見つけ、彼女はこの状況を終わりにさせた。1548年5月にエリザベスは追い出されている。 シーモアは王室支配のための企てを続けていた。同年9月5日にキャサリン・パーが産褥熱(英語版)で死去すると、彼はエリザベスへ再び関心を向け、彼女との結婚を意図した。彼の兄サマセット公と枢密院にとって、これは我慢の限界であり、1549年1月にシーモアはエリザベスとの結婚により兄の打倒を企てた容疑で逮捕された。トマス・シーモアとエリザベスとの関係の詳細についてはキャット・アシュリーとエリザベスの金庫役 (cofferer) ・トマス・パリー(英語版)への訊問で明らかにされている。ハットフィールド・ハウスに住んでいたエリザベスは関与を認めなかった。彼女の強情さは訊問者ロバート・ティルウィト卿を憤慨させ、彼は「私は彼女の顔を見て、彼女は有罪だと理解した」と報告している。同年3月20日にシーモアは斬首刑に処された。 1552年にサマセット公が失脚して処刑され、ノーサンバランド公ジョン・ダドリーが実権を握った。ノーサンバランド公は第三王位継承法(英語版)を退けてメアリーとエリザベスの王位継承権を剥奪し、ヘンリー8世の妹メアリー・テューダーの孫にあたるジェーン・グレイを王位継承者とするようエドワード6世に提案した。カトリックのメアリーが王位を継ぐことを恐れたエドワード6世はこれを承認する。
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