エッケハルト1世 (985 – 1002)
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「エッケハルディン家」の記事における「エッケハルト1世 (985 – 1002)」の解説
ギュンターの息子エッケハルト1世は、985年にマイセン辺境伯を引き継いだ。フィンネのエッカルツブルク城の建造者として知られる。エッケハルトはオットー3世の有力な家臣であった。皇帝のイタリア出兵に際しては、不可欠の軍司令官であった。ティートマール・フォン・メルゼブルクが、その年代記の中で「帝国の誉れ」と呼んだエッケハルトは、権力を常に意識していた。したがって、1002年1月にローマの北方にあるパテルノ城でオットー3世が亡くなった後、王位を巡る戦いに関与したことは驚くことではない。皇帝が子供を遺さずになくなり、その後継者が安全に決することはない。エッケハルトに並ぶ候補者には、バイエルン公ハインリヒやシュヴァーベン公ヘルマン、その他にも重要な候補者がいた。なかでもハインリヒは、王位を引き寄せる素早い決断を行った。アーヘンに埋葬されるオットー3世の遺体の葬列に加わってアルプスを越えてバイエルンに入るとここに留まり、葬列が携えていた王の表象を自らの領地に持って行った。期待した成果はすぐには現れなかった。アウクスブルク司教ジークフリートを例外として、他の諸侯は誰もこれに荷担しなかった。 フローゼの諸侯会議でも、ザクセンの諸侯がエッケハルト辺境伯を王位につけようと試みたにもかかわらず、結局結論は出なかった。ヴェルラの決議が結論となった。すなわち、ハインリヒを支持するというものであった。しかし、エッケハルトは自らの主張を公式に放棄することはなかった。彼は、新たな盟約を結ぶため西に向かったが、1002年4月30日にペールデにおいて敵の騎士たちに襲撃され、落命した。 エッケハルト1世はマイセン辺境伯として権力の絶頂にあった時期に、長く延びた尾根の上にエッカルツブルク城を建造した。
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