ギュンター (マイセン辺境伯)とは? わかりやすく解説

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ギュンター (マイセン辺境伯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/25 20:11 UTC 版)

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ギュンター
Günther
メルゼブルク辺境伯
マイセン辺境伯
在位 メルゼブルク辺境伯:965年 - 976年、979年 - 982年
マイセン辺境伯:981年 - 982年

出生 949年以前
死去 982年7月13日
クロトーネ近郊
配偶者 ドゥブラフスカ・フォン・ベーメン
子女 エッケハルト1世
グンツェリン
ブルン
家名 エッケハルディン家
父親 メルゼブルク伯エッケハルト
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ギュンター・フォン・メルゼブルクGünther von Merseburg, 949年以前 - 982年7月13日)は、エッケハルディン家のメルゼブルク辺境伯ならびにマイセン辺境伯

生涯

ギュンターはメルゼブルク伯エッケハルトの息子として生まれ、965年オットー1世によりメルゼブルク辺境伯に任ぜられた。その任務としてカラブリア地方においてビザンツ帝国と戦った。しかし、974年 - 976年に皇帝オットー2世に対してバイエルン公ハインリヒ・デア・ツェンカーが起こし失敗に終わった反乱に関わった。このため位を剥奪され、息子のエッケハルトと共に流刑に処せられた。晩年になって皇帝と和解し、979年ティートマール1世が亡くなると、その職責を継いで公職に復した。さらに、ツァイツ辺境伯の死後には、その辺境伯領の領主権をも手に入れた。オットー2世のイタリア出兵に参加した際、982年7月13日、エミール・アブドゥル・カッシム率いるサラセン軍とのカラブリア地方コロンナ岬での戦いで命を落とした。ギュンターはドゥブラフスカ・フォン・ベーメン(ボヘミア公ボレスラフ1世の娘)と結婚していたが、ドゥブラフスカは後にポーランド王ミェシュコ1世と再婚し、ポーランド王ボレスワフ1世の母となる。

先代:
メルゼブルク辺境伯
965年 - 976年
次代:
ティートマール1世
先代:
ティートマール1世
メルゼブルク辺境伯
979年 - 982年
次代:
リクダック
先代:
ティートマール1世
マイセン辺境伯
981年 - 982年
次代:
リクダック



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