ウルヴァーハンプトンとブリストン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/06 16:58 UTC 版)
「ジャパニング」の記事における「ウルヴァーハンプトンとブリストン」の解説
ウルヴァーハンプトンとブリストン(英語版)はジャパン塗装された品の製造の重要な中心地であった。1818年の商工名鑑はウルヴァーハンプトンで20、ブリストンで15のジャパニング工房を掲載している。1866年に出版されたサミュエル・ティミンズ(英語版)の本『Birmingham and the Midland Hardware District(バーミンガムとミッドランドの金物地区)』によれば、当時ウルヴァーハンプトンとブリストンでは2000人がジャパニングとブリキ産業で雇用されていた。ジャパニング会社は、経営者の自宅に隣接した小規模の家族経営工場から250人を超える従業員を雇用する大規模な工場まで規模はさまざまであった。大きな工場では、ブリキやパピエ・マシェの生産、ジャパニング工程は全て一つの屋根の下で行われていたのに対して、小さな作業場では1つあついは2つの商品の取引だけ(大抵ブリキとジャパニング)を行う傾向にあった。 その人気の高さから、豪華に装飾されたジャパン塗装製品は全て中産階級の家庭で見られるようになったが、19世紀中頃は変化が始まった。1880年代までに、ジャパニングとブリキ産業は下り坂となった。これは部分的にはファッションと好みの変化、部分的には電気めっきの発展が原因であった。それに応じて、ジャパン塗装製品の製造業者はより実用的な品物(ジャパン塗装された現金箱など)に注力し始めた。多くの業者は、エナメル加工、電気めっき、銅および真鍮製石炭バケツ、ファイアースクリーン、やかんなど他の業種に転向した。1920年代までに、ウェスト・ミッドランズの装飾ジャパン塗装製品産業はほとんど廃れた。多くの会社は新たに確立した自転車や自動車産業へジャパン塗装された金属の供給を始め、一部の会社は自分達で自転車の製造の行った。これらの中で最も成功を収めたのがジョン・マーストン(英語版)であった。マーストンのジャパニング工場は1887年に自転車の製造を始めた。会社の自転車製造部門は装飾ジャパン塗装製品よりもすぐにより成功を収めた。マーストンの妻は黒いジャパン塗装自転車の金装飾が太陽光線のように見えると考え、自転車は「Sunbeam」というブランド名が付けられ、工場はサンビームランド(Sunbeamland)と命名された。
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