ウルグアイとの戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/05/20 21:20 UTC 版)
「ウィリアム・ブラウン (提督)」の記事における「ウルグアイとの戦争」の解説
ウルグアイ国内の派閥抗争において、アルゼンチンの指導者であるフアン・マヌエル・デ・ロサスは、彼の友人でありブランコ党とコロラド党の間の内戦で失脚した前ウルグアイ大統領であるブランコ党のマヌエル・オリベ(Manuel Oribe)を支援した。ブラウンは現役に戻り、モンテビデオ周辺での3度の交戦によりかつて自分の士官だったジョン・コー(John Coe)を打ち破った。1842年8月15日、彼はパラナ川の戦いにおいて、その後イタリア統一運動の英雄となるジュゼッペ・ガリバルディに指揮されたウルグアイの河川艦隊を撃破した。ウルグアイ軍を追って川をさかのぼったブラウンは上陸を強行し海兵にウルグアイ軍と交戦させた。これまでの戦闘を経て両陣営の多数がお互い見慣れた顔となっていたが、捕虜に対して優越感を得たブラウンの部下の一部が私的な復讐を企図し、捕虜の一人を去勢した。これを聞いたブラウンは烈火の如く怒り、部下の卑劣にいっさいの容赦をせず、悪名高きガントレットと呼ばれる笞刑をもって彼らを厳しく罰した。受刑者は裸にされ、2列に向かい合って彼らを棒で打つ同僚たちの間を歩かされたが、列の途中で息絶える物もいた。ブラウンは自分の部下によってなされたこの不名誉のため、この戦いの勝利を受け入れることを拒み、処刑の裁定を待つばかりとなっていたジュゼッペ・ガリバルディを釈放させることに自分の影響力の全てを費やした。ブラウンはその行動に対して忠誠心が問われた際、このような言い習わしを用いた。「たとえそれが悪魔と交わしたものであっても、約束は守られなければならない」職務中の名誉は、ウィリアム・ブラウンと彼の新たなる故国に対する職務にとって重要なことであり、ガリバルディに向けられた親切にそれが見える。ガリバルディはこの恩寵の礼に、数年後、孫の一人にブラウンにちなんで "William" と名付けた。アルゼンチン軍/ブランコ軍はウルグアイのほとんどを占領したがモンテビデオを攻略することはできず、モンテビデオは1843年2月に始まった包囲攻撃を9年ものあいだ耐え抜いた。1845年にパラグアイへの交通が封鎖されると、イギリスとフランスがコロラド党の側に立って紛争に介入してきた。
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