ウエルタ将軍の反革命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 01:54 UTC 版)
「メキシコ革命」の記事における「ウエルタ将軍の反革命」の解説
詳細は「悲劇の十日間」を参照 マデロは、農民のあいだにカリスマ的な人気があったが、本質的には大農園主出身の政治家であり、メキシコに民主的な制度を導入し近代国家の外見を整えることには熱心だったが、貧富の格差の解消・土地改革など農民の貧しい生活を改善することには興味を示さなかった。しかし、彼の反乱に参加した農民たちは、パンと農地のために戦ったのであった。革命に参加した農民たちは、マデロの政策に幻滅した。その一方で、保守派も彼に対して幻滅していた。全盛期のディアスや、後のカランサのような政治的手腕がなかったからである。 最初にマデロと決裂したのは、モレーロス州で戦っていたエミリアーノ・サパタであった。彼は「強奪された土地・森林・水利などの財産は、正当な権利を有する村及び人民が直ちに保有するものとする。」とする「アラヤ綱領」を発表してマデロ政権に反乱を宣言する。続いて、北部では革命軍の指導者の一人だったが、高い地位につけなかったことに不満を抱いていたパスクァル・オロスコ将軍が、保守派の支援を受けて反乱を起こした。このふたつの反乱の鎮圧に出動したのが、ディアス政権から引き続いて軍の実権を握っていたビクトリアーノ・ウエルタ将軍であった。 さらに1913年2月9日には、首都メキシコ市でも保守派の反乱が勃発した(悲劇の十日間)。ウエルタ将軍は、マデロ大統領の命令を受けて反乱を鎮圧するふりをしながら実際にはなかなか鎮圧せず、その一方で大統領に忠誠を誓う部隊に対しては反乱軍に対する無謀な突撃命令を出して大きな犠牲を出させ、その力を削いでいた。実は、ウエルタは米国大使館の仲介で、反乱軍と内通していたのだった。 2月18日、ウエルタ将軍自身がクーデターを起こし、マデロ大統領とピノ・スアレス副大統領を逮捕・監禁した。ウエルタ将軍は、マデロを脅迫し、命の保証と引き替えに大統領辞任を承諾させた。だが、マデロに代わって大統領となったウエルタ将軍は、約束を反故にして、2月22日にマデーロとスアレスを殺害する。なお、マデロ大統領の家族から在メキシコ日本大使館に保護の要請がなされ、当時の駐メキシコ大使・堀口九萬一はマデロ大統領の家族を危険を顧みず保護したといわれる。
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