インド・イラン民族との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/28 00:46 UTC 版)
「アンドロノヴォ文化」の記事における「インド・イラン民族との関係」の解説
アンドロノヴォ文化の分布地域はインド・イラン語派の発祥地と目される地域に重なり、またこの地域のなかにあるシンタシュタ・ペトロフカ・アルカイム文化で紀元前2000年頃にスポーク型車輪のついたチャリオットを発明したとも考えられているため、この語派との関係が有力視されてきた。 ウラル川上流部にあるシンタシュタ遺跡は、チャリオットが墓の副葬品として発掘されたので有名である。クルガン(墳丘)で覆われ、動物(馬と犬)も殉葬された。シンタシュタや他のヴォルガ・ウラル地域の遺跡は原インド・イラン民族のものと考えられてきた。 しかしアンドロノヴォ文化をインド・イラン系とする説に対しては、特徴的な木槨墓がアムダリヤ以南のステップには見られないとの反論がある。また南方のバクトリア(アフガニスタン北部)・マルギアナ(英語版)(トルクメニスタンのメルブ地域)のオアシス地帯に同時期栄えたバクトリア・マルギアナ複合(BMAC)こそが原インド・イラン民族の文化であるとする主張もある(サリアニディSarianidiら)。サリアニディは「考古学的データから、アンドロノヴォ文化のBMACへの侵入はごくわずかであった」という。 Kuz'mina(1994)は、インド・アーリア語が近東のミタンニとヴェーダ時代のインドでこの地域としては初めて使われたこと、チャリオットの出たシンタシュタ遺跡が紀元前16-17世紀とされることを根拠に、この文化はインド・イラン系であるとする。 一方Klejn(1974)とブレンチェスBrentjes(1981)は、チャリオットを使うアーリア人が紀元前15-16世紀までにはミタンニに現れていることから、この文化は原インド・イラン系とするには遅すぎるとしている。ただしAnthonyとヴィノグラードフVinogradov(1995)はクリヴォエ湖(Krivoye ozero)で発掘されたチャリオットを紀元前2000年頃のものとしていることから、この批判は必ずしも成り立つものではない。 マロリーMalloryはアンドロノヴォ文化を北インドにまで拡大したと見るのは非常に困難だとし、その南端に当たるベシケント・ヴァクシャ文化も中央アジアに止まり、インド・イランには結び付けられないとする。そのため、アンドロノヴォ文化はこの時代に既に広範囲に拡散していたインド・イラン語派の諸文化のひとつであったと考えられる。
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