イメージとしてのヒポクラテス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/12 06:19 UTC 版)
「ヒポクラテス」の記事における「イメージとしてのヒポクラテス」の解説
アリストテレスによると、ヒポクラテスは生前から「大ヒポクラテス」として知られていた。その気質に関して、ヒポクラテスははじめ「寛容ながら威厳のある年老いた田舎の医者」として描かれ、後には「厳格で近づき難い」イメージで描かれた。偉大なる知性と特に非常に実践的な能力を持った賢者のイメージである。スコットランドの医師でギリシア語翻訳家のフランシス・アダムスはヒポクラテスを「経験と良識のある医者」であると表現した。 年老いた賢者としてのヒポクラテスのイメージは、顎鬚と皺の寄った風貌の胸像によっても強まった。当時多くの医師がユピテル像やアスクレピオス像のような髪型にしたといわれているが、今日我々の見るヒポクラテス像はそうした神々のスタイルを踏襲しない稀な例と考えられる。ヒポクラテスとその信念は医学の理想とされた。医学史の権威フィールディング・ギャリソンは「ヒポクラテスは、心のバランス、柔軟さ、そして批判精神のあり方の手本であり、とりわけいつも過ちの原因となるものを看視し続けた。それはまさに科学的精神の真髄である。」「彼の姿はいつも医師の理想像として立ちそびえている」と述べている。 江戸時代後期の日本で蘭方医学が隆盛すると、漢方医が本草学の祖として神農を祀っていたのに対抗する形で、蘭方医は西洋医学の父としてヒポクラテスを掲げた。渡辺崋山や宇田川榕菴などがヒポクラテス像を描いた例が知られるほか、多数の作品が残っており、それなりに需要があったことが窺われる。さらに、かつて薬屋が集まっていた京都市二条通に位置する薬祖神祠では、日本の大己貴神・少彦名神、中国の神農に加えてヒポクラテスも薬祖神として祀られている。
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