イェルク・ハイダーによる右傾化加速
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「オーストリア自由党」の記事における「イェルク・ハイダーによる右傾化加速」の解説
1986年、チロル州の州都インスブルックで開催された党大会での決選投票において僅差で勝利し、イェルク・ハイダーはオーストリア自由党(FPÖ)の主導権を握った。その結果、フランツ・フラニツキー首相(オーストリア社会民主党)が率いるとオーストリア自由党との連立政権は終了することになった。オーストリア自由党(FPÖ)には大学生組合を中心とする以前からの支持層が存在していたが、ハイダーは新たな支持層を加えようとした。とりわけ、伝統的に社会主義的な傾向を持つ労働者階級から、新たな支持層を得ようとした。多くの手段とスローガンを用いて、ハイダーは新たな支持層を加えることに成功したが、オーストリア内外において自由党はより厳しい批判にさらされた。直接民主主義的手法を彼は好んでおり、外国人敵視的、人種主義的スローガン、とりわけ、ナチス政権に関する彼の肯定的発言によって、ハイダーは右派ポピュリスト、デマゴーグという評判をもたらした。1991年、彼はナチス政権の相対化を行い、党を極右主義の方向にイデオロギー的に引っ張る中心的人物であると評価された。その経過において、党の中心を右派ラディカルからネオナチ系の人物で埋めていった。オーストリア自由党(FPÖ)の「オーストリア第一」を掲げた右傾化路線は、1993年になって最初の党分裂を招いた。 ハイデ・シュミットら5人の議員がイェルク・ハイダーとの論争後、党との関係を断ち、新党「自由フォーラム」を立ち上げた。党内自由主義派がマージナル化したことで、ドイツ民族主義派、右派ラディカル派の勢いが強められた。新党の自由フォーラムは1999年まで国民議会に議員を出していた。リベラル派の離党によって、オーストリア自由党(FPÖ)は1993年に自由主義(リベラリズム)政党の国際組織自由主義インターナショナルから離脱した。この自発的離脱によって、国際組織から除名される不名誉な事態から党を守った。
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