アンファール作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 20:05 UTC 版)
「アリー・ハサン・アル=マジード」の記事における「アンファール作戦」の解説
詳細は「アンファール作戦」を参照 1987年にバアス党地域指導部のメンバー入りし、それと共に党の北部局議長に任命され、主に中央政府に対して武装闘争を起こしていたクルド人勢力に対する鎮圧を指揮した。 アリー・ハサンは軍、治安機関、軍情報機関等のイラク北部・クルディスタン地方での全ての国家機関に対する全権が与えられ、クルド住民に対して、戦闘員、非戦闘員に関わらず徹底的に弾圧した。アンファール作戦と呼ばれる対クルド人ゲリラ作戦は1987年から1988年に行われ、ゲリラに所属する者の即時処刑、国軍による街や村の襲撃、農地の破壊、無差別爆撃、住民の再定住キャンプへの連行、強制移住、そして、数ヶ所の村に対して毒ガス等の化学兵器を使用した攻撃まで行われた。最初の化学兵器による攻撃は1987年4月に確認されている。もっとも有名なのが1988年に起きたハラブジャ事件である。ハラブジャでは四千人が死亡した。 アリー・ハサンは1987年6月3日付の命令で「軍は作戦管区内にいる人間、家畜を問わず動くものは全て殺害するように」と指示したとされている。また2年の間に15歳から50歳までの男性5万〜10万を処刑したとされている。1988年8月末までにイラク軍はクルディスタン地方全土を支配し終えた。同地方の町の80%が破壊され、推定で6万人が殺害・死亡したと言われている(クルド人勢力は18万人が殺害されたと主張)。 このことからアリー・ハサンはクルド人から「クルディスタンの屠殺者」と恐れられた。自身は、情け容赦の無い残忍な性格であるという世間の評判を喜んでいたらしく、サッダームがクルド人ゲリラの遺族を国が支援してはどうかと語ると、アリー・ハサンは『いいや、私はブルドーザーを使ってあいつらを葬る』と語ったとされる。 1989年から1990年までは地方行政大臣を務めた。
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