アンドレ・ユッテルとの出会い
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「シュザンヌ・ヴァラドン」の記事における「アンドレ・ユッテルとの出会い」の解説
ヴァラドンが画家のアンドレ・ユッテルと出会ったのはこの頃である。もともと実業家のムージスと芸術家のヴァラドンはそりが合わず、ユトリロとムーリスの不和も相俟って、夫婦間の諍いが絶えなかったが、そのような時期に出会ったユッテルは、ヴァラドンに新たなインスピレーションを与える存在であった。ヴァラドンはユッテルをモデルに素描や油彩を次々と描いた。国立美術学校が女性の入学を認めたのは1897年のことであり、しかも、入学が認められた後も女性の画学生は裸体モデルのデッサンが禁じられているなど多くの制約があったため、女性画家が女性の裸体を描くこと自体が例外的であり、したがって、女性が男性の裸体を描くことは、それだけで先駆的なことであった。ユッテルをモデルに描いた作品のうち、代表作は1909年制作の《アダムとイヴ》と1914年制作の《網を打つ人》であり(いずれも国立近代美術館蔵)、これらに描かれる裸の男性は「律動的な力に満ちた男性像」である。《アダムとイヴ》は1920年のサロン・ドートンヌに出展された作品である。当初はアダムの男性器が描かれていたが、サロン・ドートンヌに出展する前に、「おそらくは主催者側の要求により」性器を隠すためにイチジクの葉を描いた。この絵はまた、伝統的な絵画におけるアダムとイヴの表象に不可欠であった蛇が描かれていず、特にヴァラドン自身をモデルとするイヴは解放的でのびやかに描かれており、女性画家としてだけでなく、絵画の伝統に対しても、タブーを破る作品である。 ヴァラドンはムージスに離婚を申し立て、18区アンパス・ド・ゲルマ(現ヴィラ・ド・ゲルマ(フランス語版))でユッテルと同棲を始め、1911年に離婚が成立した。離婚を申し立てたのはヴァラドンであったが、コルトー通り12番地の地所を所有することは認められたため、1912年にユトリロ、ユッテル、母マドレーヌとともにここに越し、1914年にユッテルと再婚した。マドレーヌはここで1915年に死去した。ユッテルとの関係は、1926年に別居し、ヴァラドンとユトリロがジュノー通り(フランス語版)に越すまで続く(ユッテルは1948年に死去するまでコルトー通り12番地に住んでいた)。
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