アルバート・スポールディング
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 14:52 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動アルバート・スポールディング(Albert Spalding, 1888年8月15日 - 1953年5月26日[1][2])は、アメリカのヴァイオリン奏者。同名の叔父はスポーツ用品メーカー・スポルディングの創業者で野球選手・監督としても活躍した。
生涯
シカゴの生まれ。幼少の頃から、コントラルト歌手兼ピアニストでハープも堪能にした母マリー・ボードマンから音楽の手ほどきを受ける。夏はアメリカ、冬はイタリアのフィレンツェを行き来する生活を送っていたスポールディングは、7歳の時に叔母からヴァイオリンを送られ、フィレンツェではウルピアノ・チーティ、アメリカではジャン・ブイトラゴという2人の音楽教師の薫陶を受けることになった。またイタリアの作曲家アントニオ・スコントリーノに作曲法を学んでいる。1903年にはチーティの勧めでボローニャ音楽院の卒業試験を受けて卒業証書を取得した。その後すぐにパリ音楽院に留学し、ナルシス=オーギュスタン・ルフォールのクラスで学んだ。1905年にヴァイオリン奏者としてパリでデビューを飾り、その年のうちにハンス・リヒター率いるロンドン交響楽団と共演した。1908年に帰国し、ニューヨークのカーネギー・ホールでウォルター・ダムロッシュの指揮するニューヨーク交響楽団と共演してアメリカ・デビューを飾った。その後はヨーロッパ各地を巡って国際的名声を確立した。第一次世界大戦には従軍するものの、終戦後に演奏活動を再開している。1941年にはサミュエル・バーバーのヴァイオリン協奏曲の初演ソリストを務めた。
第二次世界大戦に従軍後、1945年ごろから演奏活動を減らすようになり、1950年にコンサート活動から引退した。ニューヨークにて死去した。
脚注
アルバート・スポールディング
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「1876年のメジャーリーグベースボール」の記事における「アルバート・スポールディング」の解説
シカゴ・ホワイトストッキングスのアルバート・スポルディング投手が、シーズン開幕後の4月25日ルイビル・グレイズを相手にナショナルリーグ史上初の完封勝ちを記録した。スポールディングはこの年投手成績は47勝12敗、防御率1.75で、ナショナルリーグで初の最多勝利投手になっている。 1869年当時アマチュアチームだったロックフォード・フォレストシティーズに2年間所属した後、1871年にボストン・レッドストッキングス(現アトランタ・ブレーブス)に入団、レギュラー投手だったスポルディングは1871年から1875年の5年間で205勝もの勝ち星を挙げ、打つ方でも打率3割を超える成績(1872年.354など)を残していた。当時レッドストッキングスのほぼ全ての試合で投げていたスポルディングは、1874年は71試合で52勝16敗、1875年も年間約80試合のうちの72試合に登板し、55勝5敗(54勝説もある)で2年連続で50勝という投手成績を残した。しかも1875年のシーズンで24連勝するなど驚異的な成績を残した。この年にナショナルリーグ開設にウィリアム・ハルバートとともに尽力し、投手兼監督として初のリーグ優勝した。1977年を最後に選手をやめてホワイトストッキングスの監督となり、その後は共同オーナー兼会長になり、さらに運動具店を開設してスポーツ用品のビジネスで成功して、さらに1905年に野球史調査委員会を設けて2年後に『ベースボールは、1839年にアブナー・ダブルデイがクーパーズタウンで考案したのがその起源である』とする発表を行った。これは、その後否定されたが、野球界への貢献は大きいもので、1939年に殿堂入りした。
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