アルゼンチン亡命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/16 18:10 UTC 版)
「ジゼル・フロイント」の記事における「アルゼンチン亡命」の解説
第二次世界大戦が勃発し、1940年にナチス・ドイツがフランスを占領すると、フロイントは再び亡命を余儀なくされた。モニエは多くのユダヤ人の亡命を助けたことでも知られるが、ベンヤミンがニエーヴル県ヌヴェール近郊のヴェルニュシュ収容所から解放され、フロイントがロット県に逃れることができたのもモニエの尽力によるものであった。ベンヤミンはこの後ルルド、次いでマルセイユに逃れ、スペイン経由で亡命を企てたが、健康状態も含めて絶望的な状況のなか、ポルトボウで自殺した。ロット県に着いたフロイントは、再びアンドレ・マルローと、アルゼンチンの作家で文芸雑誌『南(Sur)』を主宰していたヴィクトリア・オカンポ(スペイン語版)の支援により、1941年にアルゼンチンに亡命し、ブエノスアイレスのオカンポのもとに身を寄せた。 アルゼンチンではすでに1939年にフランスから亡命していたロジェ・カイヨワが、赤十字社の「フランス戦争犠牲者支援委員会」のための活動をしていた。彼は自作のほか、ジュール・シュペルヴィエル、ヴィクトル・ユーゴー、サン=ジョン・ペルス、アンドレ・ブルトンの作品をオカンポの『南』誌に掲載し、収益を支援委員会に寄付した。フロイントもまた、フランスのための資金調達に奔走し、「慈善活動ではない、フランスとの団結だ」として「フランス人作家との団結」を結成。オカンポが代表に就任した。支援委員会はホルヘ・ルイス・ボルヘス、アドルフォ・ビオイ=カサーレス、マヌエル・ムヒカ=ライネス(スペイン語版)など多くの作家から支援を得た。フロイントは彼らの肖像写真を撮り、これまでの作品も含めて競売にかけ、収益を委員会に寄付した。パリ解放後に郵便が再開され、モニエと連絡を取ることができるようになると、フランス人作家と委員会の仲介役となり、委員会が集めた資金で、数トンの食料品や衣料品、タイプライターのリボンを購入し、マルローを介してフランスに送った。
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