アメリカでの暮らし
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 07:43 UTC 版)
1919年、草人とともに渡米。渡航費用は、草人の友人の谷崎潤一郎が金策にきた浦路に頼まれ、中央公論社などに出してもらった。ハワイ、ロサンジェルス、シアトルはじめ、遠くはカナダのバンクーバーまで出向いて在米邦人向けに公演し、好評を得たが、草人の横暴ぶりからしばしば興行主とトラブルを起こし、生活は苦しかった。邦人向けの新聞に寄稿したり、二人で邦字雑誌を創刊したりして糊口を凌いだが、もっぱら記事は浦路が執筆。皿洗いまでして家計を支えたが、草人のほうはこのころ釣りに熱中。浦路の母親が亡くなったため、預けていた長男平八を引き取る。 1923年、草人がハリウッド映画『バグダッドの盗賊』のオーディションに受かり、英語のできる浦路が交渉し、モンゴル王子役を勝ち取る。このギャラで車を買い、ロスに家も買った。 草人はオリエンタル・アクターとしてハリウッドで引っ張りだこになり、浦路は任されていた邦字誌「東西時報」を1926年に廃刊し、日本から訪れる映画関係者の対応に忙しくなる。端役ながら、Ura Mitaの芸名で『The Devil Dancer(悪魔の踊り子)』、『Wu Li Chang』に出演。 息子の竹三郎が貧困にあることを聞き、1928年に養親に大金を払って親権を取り返し、進学の手配をした。養女に出した蕗子も貧困にあり、女工、納豆売りなどをしていたが、草人が1929年に単身で帰国したときに竹三郎とともに再会した。しかし蕗子はその後も女中などをしており、精神を病んで入院。退院後プロレタリア運動に参加し逮捕される。
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