アメリカでの業績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 13:46 UTC 版)
1939年、彼はカミーラ・ラッテス(Camilla Lattes)と結婚した。彼女は、彼のよく知られた原子・分子物理学についての著書Physics of Atoms and Molecules(1959年)の共著者である。本書の付録IIIは2つの荷電粒子の衝突の基本的な説明を提示しており、リチャード・ファインマンが講演で使用し、その内容は後に『ファインマンさん、力学を語る(英語版)』(原題:Feynman's Lost Lecture)として出版された。その後、この本の内容を拡張した版がBasic Physics of Atoms and Molecules(1972年)として出版された。 その年の後半、イタリアで反ユダヤ政策(英語版)が発効したことからアメリカ合衆国に移住した。アメリカでの彼の最初の研究は、バクテリオファージと放射線物理学の研究における先駆的研究、特に、X線と中性子の生物学的(英語版)効果の違いに関するものであった。 第二次世界大戦中、アバディーン性能試験場で兵役に従事した後、国立標準局(NBS、現国立標準技術研究所(NIST))の職員となった。彼は、NBS職員で初の理論物理学者だった。1966年までNBSに勤務し、同年、シカゴ大学で物理学の教授となった。シカゴ大学では、1990年代初めまで約30人の大学院生およびポスドク研究員を指導した。彼らの多くは、現在、アメリカ、ヨーロッパ、日本の理論原子物理学・分子物理学において主導的立場を占めている。
※この「アメリカでの業績」の解説は、「ウーゴ・ファノ」の解説の一部です。
「アメリカでの業績」を含む「ウーゴ・ファノ」の記事については、「ウーゴ・ファノ」の概要を参照ください。
- アメリカでの業績のページへのリンク