アメリカでのメルツェル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/02 10:01 UTC 版)
「トルコ人 (人形)」の記事における「アメリカでのメルツェル」の解説
トルコ人はメルツェルに富をもたらしたが、彼は借金に陥り、また債務不履行でボアルネに訴えられた。メルツェルは借金返済のためにトルコ人を売ることができず、その代わりアメリカでツアーを行うこととした。1826年、ニューヨークでエキシビジョンを開催し、少しずつ人気が出てくると、多くの新聞が紹介記事や匿名の暴露記事を書いた。メルツェルの課題は、トルコ人の適切な操作者を探すことだった。最終的にメルツェルは招へい資金を作った後、以前の操作者ウィリアム・シュルンベルジェをヨーロッパからアメリカに呼び寄せた。 シュルンベルジェが到着すると、トルコ人はボストンでデビューした。メルツェルは、ニューヨークのチェス選手は全く相手にならず、ボストンの選手の方がまだましだと吹聴した。このツアーは何週間も成功を収め、3週間後にはフィラデルフィア、その後はボルティモアに移動した。ボルティモアには何週間も滞在し、アメリカ独立宣言の署名者チャールズ・キャロル・オヴ・カロルトンに負けたりもした。また、ボルティモアでの展示中には、ウォーカー兄弟がトルコ人に対抗するため、Walker Chess-playerという独自の機械を作ったという記事も出た。メルツェルはこの機械を見て、買い取ろうとしたが、この申し出は拒絶された。ウォーカー兄弟の機械は数年間ツアーを行ったが、メルツェルのような名声は得られなかった。 メルツェルは、時々ヨーロッパに戻りつつ1828年までアメリカでの展示を続け、1829年に帰った。1830年代には、再びアメリカとを訪れてミシシッピ川の方まで足を伸ばし、カナダにも行った。バージニア州リッチモンドでは、『南方文学新報』を著したエドガー・アラン・ポーに面会した。ポーのエッセイ『メルツェルの将棋差し』Maelzel's Chess-Playerは、1836年4月に出版された。ポーの仮説には誤りが多かったが、トルコ人に関する最も有名なエッセイとなった。 メルツェルは、最終的にキューバのハバナも訪れた。キューバではシュルンベルジェが黄熱で死去し、操作者がいなくなってしまった。メルツェルは落胆してフィラデルフィアに戻った。メルツェルは1838年、66歳の時に、トルコ人を船長に預けたまま、帰還の途中に海で亡くなった。
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