アメリカでのレース参戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 05:20 UTC 版)
アメリカ参戦当初は順風満帆とはいかなかった。初戦のタラテガ200マイルはリタイアに終わったため、オンタリオ250マイルへ向けて、吉村は集合管を携えて初めてアメリカへ渡った。オンタリオ250マイルはゲイリー・フィッシャーとジンジャー・モロイ(英語版)の2名で臨むも、1台はキャブレターから砂を吸い込んだためにエンジンブローでリタイア、もう1台はまたしてもカムチェーンが破断し、両者ともリタイアに終わった。だが、オンタリオで発表された集合管は高い注目を浴び、アメリカのみならずイギリスのモーターサイクル誌にも掲載されるほどの影響を与えた。 翌年、1972年のデイトナに参加するため吉村は再びアメリカへ渡った。すると日本では集合管に対して懐疑的な見方がなされていたのに対し、アメリカでは既に集合管を模倣した製品が出ていたことに吉村は驚いた。レースは予選こそゲイリー・フィッシャーが5番手、ロジャー・レイマンが8番手につけ、ゲイリー・フィッシャーは11周にわたってトップだったが、結局両者ともオイルパンからのオイル漏れによりリタイアに終わった。
※この「アメリカでのレース参戦」の解説は、「吉村秀雄」の解説の一部です。
「アメリカでのレース参戦」を含む「吉村秀雄」の記事については、「吉村秀雄」の概要を参照ください。
- アメリカでのレース参戦のページへのリンク