アマデオ・ジアニーニ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/05 06:11 UTC 版)
「バンク・オブ・アメリカ」の記事における「アマデオ・ジアニーニ」の解説
1904年、バンクアメリカはアマデオ・ジアニーニ(Amadeo Giannini)によって、バンク・オブ・イタリア(Bank of Italy)の商号で、労働者階級-特にサンフランシスコの北海岸に住むイタリア系移民のための銀行として、サンフランシスコに設立された。1906年のサンフランシスコ地震にも生き延び、翌日からは市街の再建ビジネスに融資を提供する最初の銀行となった。1907年恐慌ではソキエタ・バンカリア・イタリアーナ(Società Bancaria Italiana)を救済するため、頭取であったボナルド(Bonaldo Stringher)が米国債の利子を立替えて流動性を回復した。 1919年7月に連邦準備制度に加盟した。バンク・オブ・イタリアはクロッカー(Crocker National Bank)が小さく見えるほど拡大したが、連邦準備制度は会員銀行にそれ以上の支店設置を認めなかった。しかし会員銀行は貿易特権があった。本国イタリアは1925年にJPモルガンから10億ドルを借りた。会員銀行は勢いづいた。1927年、カリフォルニア州の金融当局が態度を軟化させて支店拡大を認めたのである。翌1928年に二つ目の持株会社トランスアメリカをつくった(Transamerica)。1929年、サンペドロのバンク・オブ・アメリカ・ロサンゼルスを買収した。さらに、二つ目の持株会社がブレア商会(Blair & Company)と合併した。ブレア社長のエリシャ・ウォーカー(Elisha Walker, October 8, 1879 - November 8, 1950)は、クーン・ローブのパートナーであった。ジアニーニは彼というウォール街通がほしかったのである。1930年、二つの持株会社が統合された(英: National Trust and Saving Association)。ジアニーニは引退して社長職をウォーカーに譲ったが、しかしウォーカーがトランスアメリカを解散して清算しようとしたので、それを聞きつけて1931年に再び社長となり、カリフォルニア州の株主を説得して主導権を回復した。それでも世界恐慌のダメージがジアニーニを連邦の金融政策から疎外していった。1937年、連邦準備制度がトランスアメリカとバンクアメリカ(旧バンク・オブ・イタリア)を強制分離しようとしたのである。バンクアメリカは第二次世界大戦で著しい成長を遂げた。
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