アベナキ族との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 07:25 UTC 版)
「リチャード・クート (初代ベロモント伯)」の記事における「アベナキ族との関係」の解説
クートがマサチューセッツとニューハンプシャーに居たときのフロンティアの状況は、ニューイングランド北方のアベナキ族がウィリアム王戦争を終わらせたレイスウェイク条約に関わっていたので、幾らか緊張していた(ニューヨーク植民地におけるイロコイ族と似ていた)。戦争の後、メインとニューハンプシャーのアベナキ族と開拓者達は互いを極度に信用しなくなっていた。アベナキ族はイングランド人が彼らの土地を侵略して来ていると脅威を感じ、開拓者達はフランス人がアベナキ族に吹き込んで彼らの開拓地を襲わせる状態に戻ることを恐れていた。クートはアベナキ族の土地を取り上げるような計画が無いことを宣言してその文書をアベナキ族の間に配布させたが、その底にある緊張関係を和らげることはできなかった。その理由の1つは、アベナキ族の関心がフランス・カトリックの陰謀で根こそぎにされたという甘い仮定があったことだった。イングランド人交渉人がアベナキ族をイエズス会宣教師と分離しようとしたとき、それまで続いていた交易交渉を混乱させ、「ローマ教皇の使者」が彼らに戦争を仕掛けさせようと企んでいる行動について、ピューリタンのニューイングランドの心配を和らげるためには何もできなかった。植民地議会は植民地が領有を宣言した領土内でのローマ・カトリック教会を禁止する法を成立させ、その範囲には1593年にウィリアム・フィップス総督が宣言したアベナキ族の領土まで含まれていた。クートは、東部アベナキ族がイロコイ族の影響下に入る西部に移住するよう説得しようとしたが、むなしかった。これは昔からアベナキ族とイロコイ族が紛争を続けていたことも災いした。このような困難さにも拘わらず、1699年1月にはアベナキ族との不安定な和平を結ぶことはできた。 アベナキ族との関係は主権に関する誤解によって複雑なものにもなっていた。アベナキ族は自分たちに主権があると考え、イングランド人は彼らをイングランドあるいはフランスの臣下であると考えていた。アベナキ族が保持していたイングランド人捕虜と、イングランド人が保持していたインディアン捕虜との交換は、ケベックの交渉相手にイングランド人捕虜の解放をさせようと交渉するには十分だとクートが考えていたために、憤懣のもとになった。
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