アフォンソ1世とキリスト教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/01 06:49 UTC 版)
「アフォンソ1世 (コンゴ王)」の記事における「アフォンソ1世とキリスト教」の解説
1513年、アフォンソはマヌエル1世の勧めにより、ローマ教皇に帰順する。 また、マヌエル1世の助言に従い、アフォンソは息子のドン・エンリケを団長とする使節団をヨーロッパに派遣し、エンリケにキリスト教理を学ばせた。象牙、毛皮、ラフィアの織物と320人の奴隷を携えた使節団は、リスボンに到着した。一行はリスボンで奴隷たちを降ろした後、陸路でイタリアに向かい、1513年にローマに到着する。1520年に帰国したエンリケは王国の首都ンバンザ=コンゴで司教を務めたが、帰国して間もなく没したため王権によるキリスト教の制御は未達成に終わる。 1516年にアフォンソは20人のコンゴ人の若者たちをエンリケと同様にヨーロッパに留学させたが、それらの若者の半分は道中でサントメ島の奴隷とされた。それでもなお、アフォンソは甥と孫に教育を施すため、1539年に彼らをヨーロッパに派遣した。 ポルトガル王室から奴隷貿易の規制が行われないことを憂慮したアフォンソは、ローマ教皇パウルス3世にも助けを求めた。1529年と1539年の2度にわたりローマに使節を送ったが、無駄骨に終わる。1535年には教皇からコンゴへの援助と指示を約束する返答を受け取ったが、教皇の手紙はやはり効力を持たなかった。 アフォンソの在位中にコンゴにおけるポルトガルの宣教・教育活動は衰退し、宣教師の数は10人を超えることは無く、全員が王宮に居住していた。アフォンソはポルトガル人が及ぼす悪影響に耐えかね、宣教師と教師を除く全てのヨーロッパ人の追放を命じる。しかし、この命令を撤回せざるを得なくなり、外国人が行う商取引を監察する委員会を設置することで妥協した。
※この「アフォンソ1世とキリスト教」の解説は、「アフォンソ1世 (コンゴ王)」の解説の一部です。
「アフォンソ1世とキリスト教」を含む「アフォンソ1世 (コンゴ王)」の記事については、「アフォンソ1世 (コンゴ王)」の概要を参照ください。
- アフォンソ1世とキリスト教のページへのリンク