アドミラル(提督)の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 03:17 UTC 版)
「サンアントニオ・スパーズ」の記事における「アドミラル(提督)の時代」の解説
この状況が変わるのは、1987年にドラフト1位で指名された海軍兵学校のデビッド・ロビンソンが卒業後2年間海軍で兵役に就いた後1989年よりチームに加わってからだった。ロビンソンは海軍で軍役に就いていたため、提督(the admiral)のニックネームでも呼ばれることになる。ブラウン体制の2年目の1989-90シーズンには大きく躍進し、ブラウンとポポヴィッチは見事にチームの再建を果たすこととなる。 1989-90シーズン は、待ち望まれていたデビッド・ロビンソンがスパーズに合流し同じ年にドラフト全体3位で指名されたショーン・エリオットやテリー・カミングスの加入によってチームは盛り返し、前年に35勝上乗せした56勝26敗でシーズンを終えた。この年はクライド・ドレクスラーが主力となりウェスタンカンファレンスを制してファイナルに進出したポートランド・トレイルブレイザーズにカンファレンス準決勝で3勝4敗の末敗れた。ロビンソンは新人のセンターとして1試合平均24.3得点、12.0リバウンドをマーク、新人王を獲得した。 1990-91シーズン は、55勝27敗でディビジョンを制してプレーオフに進出したが、1回戦でゴールデンステート・ウォリアーズに1勝3敗で敗れた。このシーズンは、優勝を果たしたシカゴ・ブルズ、マイケル・ジョーダンの時代が始まったシーズンであった。 1991-92シーズン は、47勝35敗と昨シーズンより成績を落とし、ディビジョンの覇権をジャズに奪われ2位となり第5シードでプレーオフに進出したが、プレーオフ1回戦でサンズにスウィープされチームは、ラリー・ブラウンを1991-92シーズン終盤に解雇した。このシーズンは開幕直前にマジック・ジョンソンの引退がありウエスタンの勢力図が塗り替わったシーズンでもあった。もう1つの大きな出来事として、バルセロナ五輪代表のかつてない豪華な陣容である「ドリームチーム」結成があった。スパーズからはデビッド・ロビンソンが参加し、NBAの国際的な人気を決定付けると共に、バスケットボールブームを巻き起こした。 1992-93シーズン 、ラリー・ブラウンの解雇に伴いポポヴィッチがゴールデンステート・ウォリアーズに移り、こちらも名将の誉れ高いドン・ネルソンのもとでアシスタントコーチとなった。スパーズはカレッジのUNLVのヘッドコーチだったジェリー・ターカニアンと契約したが、序盤の20試合を9勝11敗となったところで解任された。その後は1試合をおいて、ジョン・ルーカスが引き継ぎ残りシーズンを49勝33敗まで持ち直したものの、このシーズンはディビジョンの覇権をロケッツに奪われ、第5シードでプレーオフに進出、1回戦はブレーザーズを破ったが、またしても、チャールズ・バークレーの活躍で ファイナルに進出したフェニックス・サンズに敗れた。そのサンズもシカゴ・ブルズ、マイケル・ジョーダンの前には、力尽き3連覇を許している。スパーズはシーズン終了後に現在のオーナーグループがチームを購入し、新しく建設されたアラモドームに本拠地を移した。 1993-94シーズン は、オフシーズンにショーン・エリオットとのトレードでデニス・ロッドマンを迎えて55勝27敗を記録したが、プレーオフ1回戦で、ジョン・ストックトンとカール・マローンの強力コンビを擁するユタ・ジャズに完敗し、ルーカスヘッドコーチは辞任した。
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