アストゥリアスの反乱と後ウマイヤ朝の建国とは? わかりやすく解説

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アストゥリアスの反乱と後ウマイヤ朝の建国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 17:59 UTC 版)

レコンキスタ」の記事における「アストゥリアスの反乱と後ウマイヤ朝の建国」の解説

718年西ゴート王国貴族称するペラヨが、アストゥリアス地方キリスト教徒率いて蜂起しアストゥリアス王国建国した。多く史家レコンキスタ開始この年設定している。722年(あるいは718年724年とも)、ペラヨコバドンガの戦い勝利しイスラム勢力対すキリスト教国家として初めての勝利を手にした。これは実際に小規模な戦いに過ぎなかったが、イベリア半島キリスト教徒にとっては象徴的な勝利であった以降アストゥリアスレコンキスタ拠点となった。同じ頃、カンタブリアでも豪族ペドロ公がイスラム勢力排除していた。両国連携しペドロ公の息子アルフォンソ1世は、ペラヨの娘と結婚した間もなく両国統合され地盤得たアストゥリアス王国は、徐々に南方への反攻開始した732年トゥール・ポワティエ間の戦いフランク王国宮宰カール・マルテル勝利を収めムスリム勢力ピレネー以北への進出阻止したその後751年メロヴィング朝からカロリング朝代替わりすると、フランク拡張政策転換しイベリア進出狙い始めた一方ウマイヤ朝分裂兆し見せていた。広大な版図各地反乱頻発していたが、ダマスカスカリフ何ら有効な手立て打てなかった。750年サッファーフウマイヤ朝滅ぼし新たにアッバース朝興したアッバース革命)。ウマイヤ朝王族アブド・アッラフマーン1世イベリア半島逃亡し756年コルドバ後ウマイヤ朝建国した。ただし、アッバース朝カリフ対す配慮から「コルドバアミール」を称した

※この「アストゥリアスの反乱と後ウマイヤ朝の建国」の解説は、「レコンキスタ」の解説の一部です。
「アストゥリアスの反乱と後ウマイヤ朝の建国」を含む「レコンキスタ」の記事については、「レコンキスタ」の概要を参照ください。

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