たき‐れんたろう〔‐レンタラウ〕【滝廉太郎】
たき・れんたろう
瀧廉太郎[解説]1879(明治12)年~1903(明治36)年。明治時代の作曲家、ピアノ奏者。東京市芝区南佐久町二丁目18番地で生まれる。官庁勤めの父について横浜、富山、東京、大分と移り、明治25年1月、12歳の時、直入郡長となった父とともに竹田へ。直入郡高等小学校第二学年に転入し、5月には第三学年に進級。約300坪の広い敷地に重厚な門と土塀がめぐらされていた武家屋敷が郡長官舎で、ここから約1㌔㍍の小学校に通学した。1899(明治32)年、20歳で東京音楽学校助教授に就任。「花」「四季」「荒城の月」などを作曲して日本の芸術歌曲を創始した。特に多感な時期を過ごした竹田に対する想いは格別であったとされ、「荒城の月」はかつて遊んだ岡城を念頭に作曲したといわれる。また、ピアノ奏者としても優れた技量を示した。1901(明治34)年、文部省の命でライプチヒ王立音楽学院に留学するも、翌年肺結核となり帰国。第二の故里大分で24歳で夭折した。竹田市には、かつて住まった屋敷が「瀧廉太郎記念館」として残されているほか、岡城にも銅像があり、所縁の芸術家の功績を讃えている。
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