それぞれの名称の入れ違いについての問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/14 08:31 UTC 版)
「千代金丸」の記事における「それぞれの名称の入れ違いについての問題」の解説
千代金丸の鍔には「てかね丸」の文字が刻まれている。『おもろさうし』にも宝刀「てがねまる(手金丸)」の歌があり、「筑紫だら(つくしぢゃら)」は手金丸の別名と原注されている。「だら」は「太郎」の琉球方言訛りであり、転じて「大切なもの」を意味する。筑紫から来た宝剣(長脇差)の意味である。他書には千代金丸が手金丸であると記述されているが、この形状や、刀身の作成時期などから、千代金丸と治金丸の名前が入れ替わった可能性が提起されている。 千代金丸の別名に重金丸があるが、東恩納寛惇は「千代」が琉球方言訛りで「チュ」となり、それに「重」の字があてられたと推定している。 首切り妖刀の伝承はいくつか伝えられているが、そのうちの一つでは治金丸こそがその妖刀であるという。その逸話の場合、首切り事件は豊見城で起り、包丁を刀に打ち直したのは京阿波根である。ただし、治金丸を所有していたのが大村御殿の北谷王子(北谷領主である王子)であったとして、北谷と結びつけられている。北谷王子は治金丸で黒金座主という妖僧を斬殺し、その怨霊が沖縄民話の妖怪「耳切り坊主」になったとされる。 琉球での日本刀は重要な交易品であったが、その全てが本土製であった。鍛冶師や金細工師はいたものの、琉球時代を通して日本刀の刀工は見られない。ただし、薩摩で修業したという宮古島のナリヤ鍛冶の伝承がある。
※この「それぞれの名称の入れ違いについての問題」の解説は、「千代金丸」の解説の一部です。
「それぞれの名称の入れ違いについての問題」を含む「千代金丸」の記事については、「千代金丸」の概要を参照ください。
- それぞれの名称の入れ違いについての問題のページへのリンク