その後の経緯・影響
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「在廷ノ臣僚及帝国議会ノ各員ニ告ク詔勅」の記事における「その後の経緯・影響」の解説
その後、再査定や費用科目の変更などを行った結果、削減額を267万円(うち六十七条対象分は198万円)、新艦建造費は21万円だけ減らす事、文武官俸禄献納額を148万円とすることで漸く合意に達し、22日に修正された予算案が衆議院を通過、4日後には貴族院も通過した。この詔勅の結果、財政に関する見解では政府の意向が貫徹されたものの、民党側もその政治力で倒閣寸前まで追い込んだことは明白であった。一方でこれを機に自由党は海軍改革と行政整理を貫徹した上で、藩閥政権と結んででも政権を獲得して自党の政策を実現することを目標に掲げるようになる。 逆に改進党は民党として藩閥政権と正面から対決する路線を選択し、条約改正を巡る問題を新たなテーマとして更なる政府批判を強めていく。国民協会は上奏案に反対するなど予算についてはやや政府よりの姿勢を見せたものの、そもそも海軍増強が同会の基本路線であったからであり、この時には既に政府がイギリスと推し進めていた条約改正(日英通商航海条約)には強い反対の姿勢を示しており、条約改正が近づけば外交政策を巡って反政府の動きに出る事は避けられなかった。 やがて改進党と国民協会、同盟倶楽部などの小会派は伊藤内閣が推進する漸進的な条約改正に反対する(現行条約励行運動)ために結集して硬六派結成に至るが、これは衆議院第1党である自由党を除くほとんどの代議士を包括したことから「反伊藤内閣」「反自由党」連合としての色彩を強めていく事になる。そして日清戦争を挟んで伊藤内閣、伊藤内閣に行政整理の貫徹を求める一方で条約改正には賛成する自由党、行政整理と条約改正両方の貫徹を求めて伊藤内閣を非難する硬六派の3つ巴の対立構図が形成され、伊藤内閣と自由党は硬六派に対抗するために連携を深め、日清戦争後の板垣の内務大臣就任に至る事になった。 詔勅に伴う新艦建造によって、戦艦富士と戦艦八島が建造されたが、建艦計画成立の遅れで、当初の対清戦備だった1894年(明治27年)の日清戦争に間に合わず、結果的には対露戦備(日露戦争)の第一艦となった。
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