おおもり‐ふさきち〔おほもり‐〕【大森房吉】
大森房吉(おおもりふさきち 1868-1923)
大森房吉は、福井県福井市に生まれ、明治22年(1890)帝国理科大学物理学科を卒業し、地震学及び気象学を専攻した。明治25年震災予防調査会設立と同時に委員となる。独・伊に留学後、地震学の教授となり、国内外の多くの地震を調査し、200編以上の調査報告及び研究論文を発表し、生涯地震学とともにあった。
最初の地震学教授となる関谷清景(1854-1896)亡きあとの日本の地震学の中心は、大森と2歳年下の今村明恒(1870-1948)であった。明治26年今村と大森は、津波と地震との関係について異なる説を主張した。これが両者の論争の始まりとなる。
明治38年今村は、関東大地震を予測し、生命の保全、被害の低減措置をとることを訴えた。しかし、興味本位の雑誌記事と偶々起きた数回の地震によって、騒ぎが大きくなり、大森は沈静化を図るため地震は発生しないと積極的に動いた。大正12年今村の予測は的中し、関東大震災が起きた。実は大森も大正 8年に、将来関東大地震が発生することを発表していたのだ。
そのとき大森は、オーストラリアでの汎太平洋学術会議に出席中、ドイツから購入した地震計を見学していたときに、大きく振れた針から関東大震災の発生を知った。そして、急遽帰国中の船中で倒れ、同年に死去したことは、大森らが研究してきた大地震に関する実質的な資料がこの地震によって多く得られ、地震学の発展につながったことと合わせて因縁を感じさせる。
「地震学講話」(1908)が代表著作で、主な業績には、大森式地震計の考案、初期微動と震源距離の関係(大森公式)、潮位・津波の研究などがある。

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