『新青年』と新文化運動
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中国の現実に絶望した陳独秀は、日本で「国民の唯一の希望は外国人による分割だけである」など厭世的で悲観的な文章を書いていたが、これに対して友人の李大釗から愛すべき国を求める努力をやめるべきではないと批判される。陳独秀は1915年に帰国し、9月に上海で『青年雑誌』(のちの『新青年』)を創刊する。『新青年』において陳独秀は、伝統的な文化や社会体制が中国の近代化を妨げる元凶であるとして徹底的に否定し、中国を滅亡させないためには、もはや現代社会にそぐわない儒教や家族制度を廃絶して、「民主」や「科学」といった西洋文明の原理を全面的に取り入れるべきだと主張した。この単純明快で過激な主張は、辛亥革命後の政治情勢に閉塞感を抱いていた当時の中国の知識人の広い共感を得、陳独秀は一躍有名なジャーナリストとなる。『新青年』の活動は歴史上「新文化運動」と呼ばれ、胡適や魯迅など、近代中国史上に著名な作家や学者、政治家を多く生み出した。若き日の毛沢東も『新青年』への投稿者の一人であり、陳独秀を「思想界の明星」と絶賛している。この活動に北京大学校長の蔡元培が注目し、1917年には北京大学の文科学長に就任する。
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