『新青年』内部の対立と終焉
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「新青年 (中国)」の記事における「『新青年』内部の対立と終焉」の解説
その後、ロシア革命の評価とマルクス主義受容をめぐり、『新青年』内部では対立が深まっていく。陳独秀と李大釗らはレーニンのボルシェビズムに傾き、コミンテルン=ロシア共産党の支援を受け、1921年7月に中国共産党を結党したので、『新青年』は中共の機関誌化していった。これに対しマルクス主義に強く反対した胡適は、アメリカ・モデルによる近代化を主張し、魯迅と周作人らもボルシェビズムの専制的体質に懐疑を抱き、むしろ日本の白樺派文学者、武者小路実篤の「新しき村運動」への信頼感を表明して『新青年』から離れていった。1922年7月で休刊、事実上の解散という結末を迎えた。
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