「雪どけ」の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/21 15:08 UTC 版)
「リトアニアの宗教」の記事における「「雪どけ」の時代」の解説
スターリンの死後リトアニア共産党に占めるリトアニア人の割合は増えていき、それにしたがいリトアニア文化に対する態度も徐々に寛容になっていき、宗教弾圧も緩くなっていった。フルシチョフ時代には、それまでに宗教活動を理由に逮捕されていた者が大勢釈放されている。また、1977年からリトアニア共産党中央委員会の書記を務めたアルギルダス・ブラザウスカスはソ連後期の様子について次のように回想している。 私の時代についてであるが、党員は自分の子供たちに洗礼を受けさせ、こっそり教会で結婚式を挙げ、カトリックの祭日を祝った。この時代では我々の家族は毎年、イースター、クリスマス、クリスマス・イヴを祝ってきた。もちろん、我々は窓にブラインドを下ろして祝った。人びとはみな静かに同じことをした。なぜならそれはキリスト教徒として根本であり基本的なものであり、決して忘れえない伝統であったからである。これらの伝統は途絶えることなく、我々の家族、両親、祖父母、親族により大切に受け継がれてきた。我々はまたこれらの伝統を政府や党における我々のレベルにかかわらず党書記から普通の党員まで誰でもが受け継ぎ、それは、家族も同じである。 このように共産党員の上級官僚でさえカトリックの休日を個人的に祝っているような状況であったため、教会儀式に出席した人々に対しても当局から迫害が及ぶことはなかった。こうした状況は、宗教が抑圧されていたソヴィエト社会では独特のものであった。 ゴルバチョフの時代に入るとリトアニア国内で独立の機運が高まっていった。1990年にはリトアニア最高会議が祝日法を承認し、これにより、クリスマスやイースターといったキリスト教にまつわる日が祝日に制定された。
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