「正・不正」についての無知
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 16:27 UTC 版)
「アルキビアデスI」の記事における「「正・不正」についての無知」の解説
ソクラテスは、「戦争」というものが「不正な被害を受けた」ことを互いに言い立てて名目とし開始されることを指摘しつつ、アルキビアデスが助言するのは「不正な者」「正しい者」どちらに対して戦うことについてか問う。アルキビアデスは「内心戦わなければならないと考えている相手」が仮に「正しい者」だったとしても、(「正しい者」に戦争を仕掛けることは「無法」であり「美しくない」ので)それを公然と認めるのは難しいと言う。 ソクラテスは、これまで議論してきた「より良い」は「より正しい」ということではないかと指摘し、続いてソクラテスが、アルキビアデスはこれまで「正・不正」の見分け方を誰にも教わっていない(「学んで」いない)し教師の名を挙げることもできないことを指摘すると、アルキビアデスはそれを「自分で発見」したかもしれないし、そのためにそれを自ら「探し求めた」かもしれないと言い返す。それを受けてソクラテスは、もしアルキビアデスがその知識を「持っていない(知らない)」と自覚したことがあるならば、(それをきっかけとして、その知識を「探し求め」、「自分で発見」した)その可能性はあると指摘する。 そしてソクラテスは、ではアルキビアデスは「正・不正」を「知らないと自覚」した時が「いつ」であるか挙げることができるか問い、昨年、二年前、三年前、四年前かと問うも、アルキビアデスは否定する。さらにソクラテスは、アルキビアデスが少年時代にも遊戯の最中などに子供たちの誰かれについて、ズル(不正)等を指摘している姿を目撃しており、アルキビアデスは今まで「正・不正」を「知らないと自覚」したことが無かったこと、それゆえに「正・不正」の見分け方を「自分で発見」してもいないことを指摘し、アルキビアデスもそれを認める。 するとアルキビアデスは、「正・不正」の見分け方を、(特定の教師ではなく)「世間の多くの人たち」に「学んだ」のだと言い出す。ソクラテスが彼らは「将棋」すら満足に教えられないのに、「正・不正」を教えることができるのか問うと、アルキビアデスはできると答え、その例として自分は彼ら(世間の多数)から「ギリシア語」を学んだことを挙げる。 ソクラテスは、「何かを教えようとする者」は「自分でまずそれを知っていないといけない」のであり、「ギリシア語」に関しては「世間の多数者」は(「ギリシア語」を知っているので)教師になり得ることを認める。そして同時に、「知っている者」同士は互いに言うことが「一致する」のであり、言っていることが「相違する」のであれば「知っている者」とは認められないと指摘し、アルキビアデスも同意する。 するとソクラテスは、「木」「石」「人間」「馬」等がどういうものであるかに関しては、皆の言うことは「一致する」のであり、そうした水準であれば「世間の多数者」は教師となれるが、「どれが速く走るか、どれがそうでないか」「どういうものが健康体で、どういうものが病弱であるか」といった「専門知」になると、「世間の多数者」の言うことはバラバラに「相違する」ことになり、教師になることができないことを指摘すると、アルキビアデスも同意する。 続いてソクラテスは、「正・不正」もまた、「一致は最小」「相違は最大」なものであり、「世間の多数者」が教師になれないものであること、そしてアルキビアデスの(「正・不正」を「世間の多数者」から「学んだ」という)主張は誤りであり、アルキビアデスは「正・不正」を「学んで」もいないし「発見して」もおらず、「無知」であることを指摘する。アルキビアデスもしぶしぶそれに同意する。
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