「春の目覚め」作戦―オーストリアへの転進
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「第1SS装甲師団」の記事における「「春の目覚め」作戦―オーストリアへの転進」の解説
「春の目覚め」作戦(1945年3月6日 - 1945年3月16日)は、第二次世界大戦におけるドイツによる最後の大規模攻勢であった。この作戦は1945年3月6日に厳格な防諜の下、実行された。ドイツ軍は東部戦線の、ハンガリー・バラトン湖近傍地区において攻撃を開始した。この地区には、未だ枢軸軍が利用できた最後の石油備蓄施設の一部が含まれていた。当作戦には、西部戦線において失敗に終わったアルデンヌ攻勢から後退してきた、第6SS装甲軍とLSSAHを含む多数のドイツ軍部隊が関わったが、作戦は失敗に終わった。最初の進撃は1週間も経たずにソ連赤軍による大規模な反撃で押しとどめられた。ヒトラーの死守命令にも関わらず、赤軍の圧倒的な数的優位は、いかなる防衛をも不可能としていた。 「春の目覚め」作戦の失敗の後、ゼップ・ディートリッヒの第6SS装甲軍は段階的に、ウィーン地区へと後退した。徐々に接近する赤軍に対してドイツ軍は絶望的ながら防衛体制を構築し、赤軍による攻撃(ウィーン攻勢)を迎え撃った。しかし、ドイツ軍はウィーンを保持できず、当市は4月13日に赤軍の手に落ちた。 この敗北は、ヒトラーから第6SS装甲軍の司令官ゼップ・ディートリッヒに下された「Ärmelstreifen」(袖口徽章令)、あるいは「腕章令」に繋がった。軍は「状況に沿う戦闘を行わなかった」としてヒトラーは激怒し、不忠の象徴として、関わった武装親衛隊の部隊は、各々の部隊名を冠した袖章を取り外すように命じた。しかし、ディートリッヒは命令を拒み、軍にはその文言を伝えなかった。なお、ハインツ・グデーリアンによれば、部隊袖章のほとんどは既に「春の目覚め」作戦を隠蔽するため外されており、彼は後に、LSSAH、トーテンコップ、ホーエンシュタウフェン、ダス・ライヒの各師団における部隊徽章の着脱は、防諜上の理由によってなされたと記した。
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