II期官衙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/10 16:12 UTC 版)
II期官衙はI期の建物を取り壊し、これと重なる位置に真北を基準にして造営された。四辺の位置が判明している。全体を囲う外郭は南北422m、東西428mで、ほぼ正方形で総面積約18haで、材木塀と大溝からなる。塀は太さ約25ないし30cmの柱を隙間なく立て並べて作ったもので、その周りの溝は幅約2.5m、深さ約60cm。溝は材木列から9m離れて外側をめぐった。 南辺中央部には門跡、南西隅および西辺の2ヶ所で櫓状建物があった。南門以外の門は見つかっていない。中央やや南寄りに政庁の正殿と推定される東西に長い四面庇付きの大規模な掘立柱建物がある。その北に石を敷きつめた場所があり、北東に石組池がある。池の北と西にはやはり石組みの溝が取り付いて水を通した。 建物は、外郭の南側の外にもあった。南西には同時期に付属寺院(郡山廃寺)が造営された。ここからは多賀城と似た瓦が出土している。 出土した土器は、8世紀以降の陸奥国府である多賀城の初期の土器より古い。基本的な配置が律令制下の他の国府と同じなので、多賀城以前の陸奥国府と推定される。しかし石組池は他の国府に見られない特徴で、類例は飛鳥の石神遺跡にしかない。蝦夷の服属儀礼に伴う禊ぎに用いるものではないかとする説がある。 II期官衙の年代は、7世紀末葉から8世紀初頭と考えられており、多賀城創建前後に廃絶した。神亀元年(724年)に多賀城が作られたとの多賀城碑の文に従えば、廃止はこの年である。郡山廃寺は8世紀後半まで存続した。
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