福島第一原子力発電所事故 日本政府等の対応

福島第一原子力発電所事故

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/07 10:07 UTC 版)

日本政府等の対応

福島第一原発の吉田昌郎所長は11日15時42分頃、全交流電源喪失状態になったことから原子力災害対策特別措置法第10条に該当すると判断し、同条に基づく通報を東電本店を介して原子力安全・保安院等へ行った[142]。これを受けて、経済産業省は原子力災害警戒本部を設置。内閣総理大臣官邸では、16時36分頃に官邸対策室が設置され、既に招集されていた地震対応に関する緊急参集チームを拡大させた。さらに、16時36分頃、東京電力は非常用炉心冷却装置による注水ができなくなる虞があると判断し、16時45分頃、同法15条に基づき原子力緊急事態に該当する旨を原子力安全・保安院へ通報した[143]。政府は19時03分、原子力緊急事態宣言を出して総理官邸に原子力災害対策本部を設置するとともに、19時45分から内閣官房長官枝野幸男が記者会見で発表した[144]

福島県は11日20時50分、福島第一原発から半径2 km以内に避難指示を出した[145]。政府は、今後想定されるベントに備え、21時23分、第一原発から3 km以内に避難指示、3 - 10 km圏内に屋内退避指示を出した[146]

12日未明、東京電力からのベント作業実施の申し出に対して、官邸は許可を出した。12日3時06分頃から海江田経産大臣らが東電との共同記者会見を行い、1号機・2号機でベントを行うことを発表した[147]。また5時44分に、ベントの実施作業が遅れた場合に対応するため、避難指示対象を半径10 kmに拡大した[148]。しかし官邸は、ベントがなかなか開始されないことに不満を募らせ、6時50分頃、経済産業大臣海江田万里原子炉等規制法に基づきベント実施を命令した[51]。さらに、現地の状況が十分に把握できないことから、菅直人首相自身がベント実施に平行して事故現場の福島第一原発を視察することを決定し、12日7時11分、菅がカメラマンらと共に事故現場に到着した[148]。しかし、操作マニュアルが電源喪失を想定しておらず、現場が混乱した[149]ことなどから、ベント操作が首相の到着する段階になっても開始することができず、菅が現場にて説明を求めた。

1号機建屋の水素爆発の後、政府は12日18時25分、第一原発から20 km以内へ避難指示を出した。

事故発生直後から、東電本店ではテレビ会議システムを第一原発と繋いで情報を共有していた[150]。一方、政府への報告は総理官邸にいた東電幹部が携帯電話で情報を入手して行っていたため、伝達が遅れ気味で情報も限られていた[151]。そのため、13日午前、東電本店から総理官邸に専用のFAXやパソコンを持ち込んで設置して情報伝達が改善された[152]

3月15日午前3時、東京電力社長清水正孝から経済産業大臣海江田万里へ事故現場からの作業員撤退の意向の申し出があったが、海江田大臣に拒否され、内閣官房長官枝野幸男に再び申し出があった。午前4時17分に清水社長を官邸に呼び真意を聞いたが今後の対応を明言しなかった。午前5時35分、首相の菅直人は東京電力本店に乗り込み勝俣恒久代表取締役会長ら約200人が出迎えるなか、菅首相は「撤退などあり得ない」と迫った[153][154]。なお、清水社長は当時を振り返り、直接作業に係わらない者達の退避の意向であった[155]、また東京電力は2011年9月8日の記者会見で社長が振り返った内容であったと認識しているとした。

「撤退」を巡る行き違いを受け、菅総理大臣は東電との情報共有を迅速化するため、15日朝に東電本店に乗り込んだその場で、政府と東電が一体となった福島原子力発電所事故対策統合本部を東電本店に設置すると宣言した[156]。以後、政府の事故対応はこの統合本部で進められた。

住民に対する安定ヨウ素剤配付の遅れ
原子力安全委員会が事故発生3日後の3月14日、体内被曝(ひばく)をした場合に健康被害を防ぐ効果がある安定ヨウ素剤を住民に服用させるべきとする助言をしたのに対し、首相の菅直人が本部長を務める政府の原子力災害対策本部は、対応しなかった(同事務局では受けた記録がないとしている)。その後、原子力安全委の助言をもとに政府の原子力災害現地対策本部長が16日に、福島県や関係市町村に住民への安定ヨウ素剤の投与を要請したが事故から4日以上後となった[157]
  • 厚生労働省は、急遽、食品と水道水を含めた飲み物の被曝許容量の暫定基準値を決定して発表。人体の被曝許容量の暫定基準値を年間20 mSvと定めた。
  • 2011年5月6日 - 当事故の影響で菅直人首相は海江田万里経済産業大臣を通じて、中部電力に対して東海地震の発生予想率を基に静岡県浜岡原発の運転を中長期的に対策が立てられるまでの間、全て停止するように要請し[158]、5月9日、中部電力は政府の要請に従って、浜岡原発を停止させた[159]
  • 2011年5月24日 - 原因を究明するための調査・検証を行うため、内閣官房東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会の設置が閣議決定され[160]、6月7日初会合が行われた[161]
  • 2011年6月22日 - 原子力安全委員会は、当事故を重く見て、原子力発電設備の安全の基準となる『安全設計審査指針』と『耐震設計審査指針』の抜本改正に着手した。班目春樹委員長は改定には2 - 3年掛かると述べた[162]
  • 2011年6月、海江田万里経済産業大臣(当時)は東京電力が求めていた当事故の汚染水流出を防ぐ遮水壁設置の先送りについて、「中長期的課題」とすることを条件に容認した[163]
  • 2012年1月27日 - 野田内閣菅内閣が東日本大震災に関する15組織のうち10組織が議事録を未作成、そのうち5組織では議事概要も未作成または一部作成であったとする調査結果を発表。公文書等の管理に関する法律に照らしても不適切ともされた。野田佳彦首相は午前の参議院本会議で「文書で随時記録されなかったのは遺憾。会議の意志決定過程を把握できる文書作成は国民への説明責任を果たすため極めて重要。」と答弁した。岡田克也副総理公文書管理担当大臣)は5組織出席者から聞き取り調査の上、2月中に議事概要の作成を関係閣僚に求めた[164][165][166]。3月9日初めて公表され、原子力災害対策本部と政府・東電統合対策室の各議事録概要は12月までで合計約1400ページ、3月分は100ページ未満であった。当時の内閣官房長官枝野幸男は3月9日の記者会見で「有事の際は録音し混乱のなかでも事後的な記録作成に役立つように備えるべきだった」と述べている[167]
  • 2013年8月8日 - 経済産業省認可の国際廃炉研究開発機構(理事長・山名元)発足[168]

SPEEDIによる予測とデータ公開

政府は3月11日16時40分から[169]緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)によって放射性物質の拡散状況の予測を行っていたが、これを3月23日まで公開しなかったことで批判を浴びた。SPEEDIとは、緊急時対策支援システム (ERSS) から得られる放射性物質の放出量の情報と、気象庁から得られる気象条件の情報を基に、放射性物質の拡散・被曝量の予測を行うシステムである。しかしこの事故では、外部電源の喪失によって原子炉のデータがERSSへ送れなくなったため[170]、放出量の計算ができなくなった。そのため実際の放出量ではなく、仮定の放出量による拡散予測を行っていた。あくまで仮定による予測結果であったため、担当者らは「今回はSPEEDIが使える事態ではない」と判断し、予測データは避難などに活用されなかった[171]

3月16日からは、モニタリングポストで実際に観測された放射線量によって、原発からの放出量を「逆推定」し、推定した放出量を基に再度、拡散状況の計算を行うという方法によって拡散状況を再現し、この再現結果を3月23日に公表した。この結果は実測した放射線量から推定したものであるため実際の観測値と一致するのは当然なのだが、政府はこのような説明を十分にせず単にSPEEDIによる試算結果と説明したため、国民の間には、政府が正確な予測結果を知りながら隠蔽していたという誤解が広がった[172]

当初行った、仮定の放出量に基づく予測結果は、5月3日以降に公開された。SPEEDIのデータ公表が事故直後の予測時点ですぐに発表されなかったことで、関東および福島近県の国民が、広く被曝の危険にさらされたと、事故直後から各紙、識者らから指摘された[173][174][175]。しかし、事故の直後に外務省を通じてアメリカ軍には提供されていた[176]。一方、菅内閣は6月に国際原子力機関(IAEA)に提出した報告書の中で、損壊した原発の放射線放出に関する完全なデータをリアルタイムで入手することができず、また、SPEEDIが推測に基づいて作成した予測結果を公表すれば「不必要な混乱」を招く可能性があったと報告した[175][177]

時事ドットコムは、「世界版SPEEDI」の試算結果で、千葉市内で計測されたヨウ素を基に推計した2011年3月15日の同原発からの放出量が毎時10兆ベクレルという高い値となっていたが2012年4月3日まで未公表であった、と報道した[178]。3月15日のヨウ素131乳幼児臓器被曝線量分布を含む事故当時のデータが公表された[179][180][181][182]

事故調査・検証委員会

2011年(平成23年)5月24日に、内閣官房東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会を設置することが閣議決定された。その後、畑村洋太郎を委員長、柳田邦男を委員長代理、尾池和夫吉岡斉などを委員とする。この委員会は、内閣総理大臣を含む全ての行政機関・職員および規制対象事業者に対して、資料提供と委員会への出席を求めることができる(辞職した菅直人首相、枝野幸男官房長官、海江田万里経済産業大臣、寺坂信昭原子力安全・保安院長、清水正孝東京電力社長などに対して強制力は持たない)。

原子力安全・保安院の対応

事故直後の原子力災害特別措置法第10条、同法第15条による通報に伴い、事故の対応や住民の避難などの対策拠点として機能すべく位置づけられた「オフサイトセンター[183]」と呼ばれる施設は、停電および非常用発電機の故障で機能しなかった[184]国会事故調 (2012, sec3.2.2.2b) は、「オフサイトセンターは事故発生直後の時期にその機能を全く発揮することができず、この間の事故対応に何らの寄与もなし得なかった」と結論付けている。

また原子力安全・保安院の保安検査官は、地震発生時に保安検査実施のため福島第一原発を訪れていたが[185]、14日夕方には全員をオフサイトセンターに退避させたため[185]、現地で情報を収集する手段は失われていた。

この事故の教訓として、経済産業省は、緊急安全対策[186]、非常用ディーゼル発電機の措置[187]、ストレステスト[188]などを全国の原発に反映することを表明した。

なお、2009年(平成21年)に、原子力保安院が指摘した大津波の可能性に対して、東京電力が原子力発電所の津波対策を拒否したことが分かっている[189]

天皇避難の打診

事故直後、菅直人政権は天皇(当時は明仁)に京都か京都以西に避難するよう非公式に打診したが、宮内庁は天皇の意向として「国民が避難していないのに、あり得ない」と伝え、政権側は天皇避難を断念した[190]。2020年に元政権幹部が証言して明らかになった[190]。また、政府は皇位継承資格者である秋篠宮文仁親王の長子・悠仁親王の京都避難も検討していた[190]。菅直人は、これも2020年の『朝日新聞』の取材で「天皇陛下に移動してもらわなければならない」ことなども事故直後に考えたが、うかつに言ってしまえばパニックになると考え表向きでは言えなかったと回答している[191]







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