白山丸 (1923年) 白山丸 (1923年)の概要

白山丸 (1923年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/23 09:02 UTC 版)

白山丸
白山丸
基本情報
船種 貨客船
クラス H型貨客船
船籍 大日本帝国
所有者 三菱合資会社
日本郵船
運用者 日本郵船
 大日本帝国海軍
建造所 三菱造船長崎造船所
母港 東京港/東京都
姉妹船 箱根丸
榛名丸
筥崎丸
信号符字 SNCN→JDXD
IMO番号 29444(※船舶番号)
建造期間 599日
就航期間 7,564日
経歴
起工 1922年1月30日[1]
進水 1923年5月19日[1]
竣工 1923年9月20日
除籍 1944年7月10日
最後 1944年6月4日被雷沈没
要目
総トン数 10,380トン
純トン数 6,270トン
載貨重量 11,535トン[2]
排水量 18,851トン[1]
全長 158.5m[3]
垂線間長 150.88m[1]
18.89m[1]
型幅 18.90m
型深さ 11.27m[1]or 11.28m[2]
高さ 32.61m(水面からマスト最上端まで)
9.75m(水面から船橋最上端まで)
21.94m(水面から煙突最上端まで)
喫水 8.8m[1]
ボイラー 石炭専燃缶
主機関 三菱パーソンズ式3気筒高中圧串型(後進混成)タービン機関 2基
推進器 2軸
出力 9,299SHP[4] or 9,600SHP[5]
最大速力 16.526ノット[1]
航海速力 15ノット[5]or 14ノット[4]
航続距離 14.5ノットで10,000海里
旅客定員 一等:118名
二等:55名
三等:134名[1][3]
1940年9月17日徴用。
高さは米海軍識別表[6]より(フィート表記)。
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白山丸
1943年11月2日のラバウル空襲で被爆炎上中の「白山丸」(右)。なお、中央手前は重巡洋艦「羽黒
基本情報
艦種 特設港務艦
特設運送船
艦歴
就役 1940年10月7日(海軍籍に編入時)
連合艦隊第二艦隊第1根拠地隊/佐世保鎮守府所管
要目
兵装 特設港務艦時
三年式8cm単装高角砲2門
九三式13mm機銃単装1基1門
九六式90cm探照灯1基
武式二米半測距儀1基
特設運送船時
四一式8cm砲1門
九三式13mm機銃連装1基2門
九六式90cm探照灯1基
爆雷
装甲 なし
搭載機 なし
徴用に際し変更された要目のみ表記。
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商船時代

「白山丸」は、H型と通称される「箱根丸」級貨客船4隻の最終船として、三菱造船株式会社長崎造船所で起工された。H型は第一次世界大戦で戦没した「平野丸」等の代船として日本郵船の欧州航路用に設計された船であるが、本船は進水時点で日本郵船が船主でなく、長崎造船所のストックボート扱いであった[5]。1923年(大正12年)9月20日に竣工した。

本船を含む日本郵船H型は欧州航路向けの優秀船であり、日本の欧州航路にとって画期的な性能を有した。デザインは大正時代の船らしい古典的な姿で、中央に高い1本煙突、前後の甲板に1本ずつのマストが立っている。ヨーロッパ各国の客船に比べると小型であったが、日本を代表するという立場から内装は豪華な設備が施されていた[7]

竣工した「白山丸」は、命令航路である横浜ロンドン航路(スエズ運河経由)に就航した。途中寄港地は神戸港上海香港シンガポールコロンボポートサイドマルセイユなどとなっている。1924年(大正13年)1月には、フランスで死去した北白川宮成久王の遺体を、王妃の房子内親王とともに日本へ運んで話題になった[8]。新型の「照国丸」と「靖国丸」が竣工した後も、ともに同航路での航海を続けた。第二次世界大戦が勃発してもロンドン航路の運航は継続されたが、バトル・オブ・ブリテン開始など情勢悪化のため、1940年(昭和15年)6月には目的地をリバプールに変更して、日本への帰国者を収容している[9]。最終的に「白山丸」は同年9月に日本海軍に徴用され、同年10月をもってロンドン航路も運休となった。

特設艦船時代

太平洋戦争中期まで

1940年9月17日付で日本海軍に徴用された「白山丸」は、佐世保鎮守府所管の特設港務艦となった[10]。占領地の港湾設備を整えることが主任務で、船首と船尾に砲座を設け、船倉の一部を弾薬庫に改装するなど所要の工事を受けている。最終時には水中聴音機も装備されていた。太平洋戦争開始後の1942年(昭和17年)3月10日に特設運送船へ類別変更された[10]。なお、姉妹船のうち「筥崎丸」も同様に特設港務艦として徴用されている[7]

「白山丸」は、1942年6月にアリューシャン作戦に投入され、海軍陸戦隊を輸送して6月8日のキスカ島無血上陸に参加した[8]。その後は、日本軍占領地への人員・物資の補給任務に従事した。

1943年(昭和18年)10月17日には、「東京丸」とともに駆逐艦「白露」の護衛下で、トラック島からラバウルに人員および建築資材や食糧を輸送中、ニューアイルランド島カビエンの北北西70海里(約130km)付近において、アメリカ陸軍航空軍B-24爆撃機による爆撃と機銃掃射を受けて炎上[11]、船長以下36人が戦死した[12]

翌10月18日にラバウルへたどり着いて応急修理を開始したが、11月2日にもアメリカ陸軍航空軍のB-25爆撃機P-38戦闘機によるラバウル空襲に巻き込まれた[11]。左舷に爆弾が命中、煙突などを損傷して、乗員2人と作業中の工員多数が戦死した。このときも沈没は免れて応急修理され、「恵昭丸」と「第五日の丸」から49人の乗員補充を受けた後[13]、アメリカ軍哨戒機の空襲を撃退しつつ[5]、1944年(昭和19年)1月29日に大阪港へ帰還した。

最期

「白山丸」の最期の航海となったのは、日本からサイパンへの往復の帰途であった。当時、サイパンにはアメリカ軍の侵攻が迫っており、防備強化と居留民の本土引揚げが進められていた。1944年5月3日に大阪を出港した「白山丸」は、三池港に寄って石炭を積み取った後、横須賀港でサイパンへ向かう増援部隊600人と軍需物資を満載した。第3515船団(輸送船12隻・護衛艦8隻[注 1])に加入し、5月17日に館山沖を出撃、同月25日に無事にサイパンへ到着した[14]

帰途は、第4530船団(輸送船8隻・護衛艦5隻[注 2])に組み込まれて、サイパンから日本本土へ向かう軍人軍属計71人と、本土疎開する民間人375人が乗船した。民間人のほとんどは女性と子供で、特に11歳以下の子供が190人も含まれていた[10]。ほかに、乾カタツムリ27トンと揚げ残しの石炭265トンを積荷としている[8]

第4530船団は、5月31日の朝にサイパンを出発した。加入輸送船の中で最優秀だった「白山丸」は、基準船として船団の先頭中央に位置した。最初は北西への欺騙航路を進み、途中から北に針路を変えたが[13]、アメリカ潜水艦の待ち伏せを受けてしまった。6月2日午後10時頃、浮上したアメリカ潜水艦「シャーク」が船団左方から魚雷を発射[17]、本船の左隣に位置していた「千代丸」(栃木汽船:4700総トン)に2発が命中し、炎上沈没した[13]。「白山丸」は回頭して逃れた。

6月4日未明の午前4時5分頃、北緯22度37分・東経136度50分(硫黄島西南西280海里)、アメリカ側記録によれば北緯22度45分・東経136度50分(父島南西350海里)の地点で、アメリカ潜水艦「フライアー」の雷撃を受け[17]、魚雷1発が左舷に命中した。2番船倉と3番船倉の中間に命中したことから両船倉へ急速に浸水が進み[13]、午前4時10分には総員退去が発令された。女性と子供を優先的に救命艇で避難させようとしたが、ダビット英語版による降下作業がうまくいかず、1隻を除いて本船とともに沈没してしまった。被雷から約10分後、「白山丸」は船首を直立した状態で沈没した。第12号海防艦など4隻が救助作業にあたったが、収容できたのは乗船者のうち約半数である320人にとどまり、民間人276人を含む324人が死亡した[10]。沈没までの時間の短さと、女性や子供の多さが犠牲を大きくしたものと推定されている[16]


注釈

  1. ^ 加入輸送船は「白山丸」「濱江丸」「日本海丸」「第八雲洋丸」「営口丸」「麗海丸」「錦州丸」「夏川丸」「東豊丸」「清海丸」「明島丸」「千代丸」。護衛艦は、駆逐艦「旗風」(旗艦)、海防艦「御蔵」、同「三宅」、第16号海防艦、敷設艇「猿島」、第20号掃海艇第48号駆潜艇および特設防潜網艇「第二号興亜丸」[14]。指揮官は第5護衛船団司令官の吉富説三少将。船団名は横須賀鎮守府の護送船団への命名規則に基づくもので、千の位の3は横須賀・トラック島間航路の下り方面を、下3桁は5月15日出航を意味する[15]
  2. ^ 加入輸送船は「白山丸」「仁山丸」「第八雲洋丸」「営口丸」「夏川丸」「春川丸」「海光丸」「千代丸」。護衛艦は、往路と同じ「旗風」(旗艦)と「猿島」、第20号掃海艇のほか、第12号海防艦および特設駆潜艇「第二文丸」。駒宮(1987年)は、「拓南丸」も護衛艦に挙げている[16]。指揮官は往路と同じ吉富少将。船団名は千の位の4は横須賀・トラック島間航路の上り方面を、下3桁は5月30日出航を意味する[15]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i 『船の科学』1979年10月号 第32巻第10号、30頁
  2. ^ a b 『七つの海で一世紀 日本郵船創業100周年記念船舶写真集』、59頁
  3. ^ a b 『世界の艦船 別冊 日本の客船[1] 1868-1945』、63頁
  4. ^ a b 『日本郵船戦時戦史』上、690頁。
  5. ^ a b c d 岩重(2011年)、102頁。
  6. ^ Hakone_Maru_class
  7. ^ a b 岩重(2011年)、9頁。
  8. ^ a b c 『日本郵船戦時戦史』上、691頁。
  9. ^ 日の丸船隊の意気 欧洲航路を確守―今ぞ度胸の見せどころ大阪毎日新聞1940年6月2日。
  10. ^ a b c d 『日本郵船戦時船史』上、694頁。
  11. ^ a b Cressman (1999) , chapter V.
  12. ^ 『日本郵船戦時船史』上、692頁。
  13. ^ a b c d 『日本郵船戦時船史』上、693頁。
  14. ^ a b 駒宮(1987年)、176-177頁。
  15. ^ a b 岩重(2011年)、71頁。
  16. ^ a b 駒宮(1987年)、184-185頁。
  17. ^ a b Cressman (1999) , chapter VI.
  18. ^ 海軍辞令公報(部内限)第541号 昭和15年10月7日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079000 
  19. ^ a b 海軍辞令公報(部内限)第631号 昭和16年5月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081000 
  20. ^ a b 海軍辞令公報(部内限)第824号 昭和17年3月10日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072084400 
  21. ^ a b c 海軍辞令公報(部内限)第849号 昭和17年4月27日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072085200 
  22. ^ 海軍辞令公報(部内限)第1023号 昭和18年5月24日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072091100 
  23. ^ 海軍辞令公報(部内限)第1453号 昭和19年5月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072098000 


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