浅野長矩 類似の刃傷

浅野長矩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/22 16:35 UTC 版)

類似の刃傷

類似の刃傷事件としては、寛永5年(1628年)8月の豊島明重事件、延宝8年(1680年)6月の内藤忠勝(長矩の叔父)事件、貞享元年(1684年)8月の稲葉正休(長矩の又従兄)事件、宝永6年(1709年)1月の前田利昌事件、享保10年(1725年)7月の水野忠恒事件、延享4年(1747年)8月の板倉勝該事件、天明4年(1784年)3月の佐野政言事件、文政6年(1823年)4月の千代田の刃傷事件などがある。

性格

  • 吉良の手当てをした栗崎道有の『栗崎道有記録』は、浅野長矩は癇癪持ちであったと記す。
  • 同時代の儒学者室鳩巣は著作『赤穂義人録』の中で「長矩は人と為り強硬(また「武骨者」と傍注をつけている)屈下せず」と、頭を下げることを好まない性格であったと記している。
  • 享保2年(1717年)生まれの旗本・伊勢貞丈が書いた『四十六士論評』には、「浅野内匠頭が弟大学は、延享寛延の頃まで存命にて、予が相番にて、御小姓組を勤めたりき、其談しを聞しに、内匠頭は性甚だ急なる人にてありしとぞ、吉良へ賄賂を贈るべしと家臣勧めけれども、内匠頭用いずして、武士たるもの追従をもつて賄賂を贈り、人の蔭をもつて公用を勤むべき事に非ずと云ひけると云う、又大石が自筆の其時の日記少しばかりありしを、予見し事もありき」とある[18]。しかし、浅野大学は享保19年(1734年)に65歳で亡くなっていることが『寛政重修諸家譜』などによって判明しているため、それから10年以上が経過している延享(1744年 - 1748年)、寛延(1748年 - 1751年)の頃に生きている浅野大学と話すことは不可能である[19]。加えて、浅野大学は享保9年(1724年)に嫡子の長純に家督を譲って隠居しているため、延享2年(1745年)に28歳で御小姓組に番入りした伊勢貞丈が浅野大学と共に勤務し、相番することも年齢や勤務時期からしても不可能であった[19]。これらのことから、伊勢貞丈の『四十六士論評』の史料としての信頼性、そして浅野大学から聞いたという話の信憑性は、限りなく低いとされている。
  • 延宝8年(1680年)6月26日に、第4代将軍・徳川家綱葬儀中の増上寺において、長矩の母方の叔父・内藤忠勝永井尚長に対して刃傷に及んで、切腹および改易、貞享元年(1684年)8月28日、やはり母方の又従兄・稲葉正休が江戸城にて、堀田正俊に刃傷に及んで改易・長矩も連座で謹慎となっていることから、母方の遺伝子説を唱える説もある。

当時の大名としての評価

元禄3年(1690年)頃の諸大名の評判が記されている『土芥寇讎記』では、以下のように評されている。

「長矩、智有りて利発なり。家民の仕置きもよろしき故に、士も百姓も豊かなり。女色好むこと、切なり。故に奸曲のへつらい者、主君の好むところにと随いて、色能き婦人を捜し求めて出す輩、出頭立身す。いわんや、女縁の輩、時を得て禄を貪り、金銀に飽く者多し。昼夜閨にあって戯れ、政道は幼少の時より成長の今に至って、家老の心に任す」[20]
「長矩は賢く、利発である。赤穂藩や民に対する統治も良いために、家臣や百姓も豊かである。女を好むことは、非常である。そのため、悪心をもったへつらう者が、主君の好むところに従って、いい女を探し求めて差し出すような者は出世する。ましてや、そうして差し出された女に縁のある輩は時を得て出世し、富を得る者が多い。昼夜閨で戯れて政治は子供の頃から成長した今になっても、家老に任せている」

同じように『土芥寇讎記』で評価されている同時代人での越前福井藩松平昌親が大悪の無道人、備前岡山池田綱政が愚闇の将、出羽庄内藩酒井忠直が闇将、大和郡山藩本多忠平が愚将、近江膳所藩本多康慶が前代未聞の悪主と評されるなど、徳川一門や譜代でも悪い・愚将などの評価がはっきりとなされ、悪い評価も多い中では[21]、浅野長矩は前半の評価としては比較的褒められている部類に入る。しかしそれ以降では、女色を好むことや政治のやり方などについて非難されており、全体的な評価としては諸大名の中で中の下ほどの評価がなされている[21]

ただ、浅野長矩の女色を好むという評価については、『土芥寇讎記』以外の同時代の史料に女色を好むといったことが書かれているものが見られないことや、長矩が当時としては珍しく側室を持った記録などが見られない藩主であったことなどから、懐疑的に見る必要がある。また『土芥寇讎記』では、色を好む(男色・女色を問わず)場合でも、世継ぎをもうけなければならない藩主という立場などから、容認される大名も随所に見られるため、それらの評価基準についても様々な論考がなされている[22]

元禄14年(1701年)に書かれた『諫懲記後正』という、『土芥寇讎記』と同様に当時の諸大名の評価を記したものには、以下のような内容などが書かれている。

「将の嗜むべきは文道である。文なき将は必ず所行が疎かになる。長矩は文道なく、智恵なく、気質は威張らず、小心にして律儀とはいえ、短慮なれば、後々所行については、おぼつかなくなるだろう。されども、長矩は、淳直にして、日常の行いは義に背くことがない。奢らず、忠誠心を重んじ、世間との付き合いもよいということならば、悪いとはいえない。先年、奥方の下女について、少々、非道の沙汰があって、この頃もっぱら世間の聞こえがよくない。すでに、この家は危うきことなりと批判していたが、なんなく事がおさまった。元来、長矩はいい政治が少ないので、領民からむさぼり、所行にも少々よくないことがあるのではないかといえる。そうなれば、長矩の行く末はとても危ぶまれる」[23]

こちらでの評価は、前半は可もなく不可もなくといったものであるが、後半は奥方の下女に対する沙汰やそれについての世間の風評、そして、政治のあり方などに非難がなされている。

このうち、奥方の下女について非道の沙汰方云々という記述については『冷光君御伝記』などから、貞享4年(1687年)の6月にあった屋敷の女中部屋の屋根に放火があった事件のことだと解釈する説がある[24][25]。その事件の経過については以下の通りである。

  • 6月5日、赤穂浅野家屋敷内御広敷女中部屋の屋根より出火、犯人は長矩室阿久利の下女2人と判明。長矩、女中の処置について町奉行北条安房守へ伺う
  • 6月22日、長矩、帰国の暇を賜る
  • 7月、北条安房守指図困難につき長矩、女中火付の件を老中大久保忠朝へ伺う
  • 7月2日、長矩、江戸発駕延引の旨を老中方へ伺ったところ、指図あり。大久保忠朝より長矩へ手紙にて帰国延引と屋敷内鎮静・火の用心を指示す
  • 7月10日、長矩、火付の件を浅野光晟へ報ず。追って返書あり
  • 7月21日、大久保忠朝より長矩へ屋敷へ参るようにとの切紙あり。忠朝、火付女中の儀は相談の上将軍綱吉へは申上げなかったので勝手次第に江戸発駕するよう指示す

注釈

  1. ^ 従五位下叙位の口宣案(辞令)。
    口宣案
    上卿 小倉大納言
    延寳八年八月十八日 宣旨
    源長矩
    宜叙從五位下
    藏人頭左近衞權中將宗顯
    訓読文
    上卿(しゃうけい) 小倉大納言
    延宝8年(1680年)8月18日宣旨。
    源長矩、宜しく従五位下に叙すべし。
    蔵人頭左近衛権中将(藤原)宗顕(松木宗顕)、奉(うけたまは)る。(若狭野浅野家文書(たつの市立龍野歴史文化資料館所蔵)より)
  2. ^ 内匠頭任官の口宣案(辞令)。
    口宣案
    上卿 小倉大納言
    延寳八年八月十八日 宣旨
    從五位下源長矩
    宜任内匠頭
    藏人頭左近衞權中將宗顯
    訓読文
    上卿 小倉大納言。
    延宝8年(1680年)8月18日宣旨。
    従五位下源長矩、宜しく内匠頭に任ずべし。
    蔵人頭左近衛権中将(藤原)宗顕、奉る。(若狭野浅野家文書(たつの市立龍野歴史文化資料館所蔵)より)

出典

  1. ^ 正林の祖母と長矩の祖母が姉妹(共に板倉重宗の娘)。
  2. ^ 元禄11年9月6日1698年10月9日)に発生した江戸の大火の際、吉良義央は鍛冶橋邸を全焼させて失ったが、このとき消防の指揮を執っていたのは浅野長矩であった。長矩が吉良家の旧邸を守らなかったことで吉良の不興を買い、後の対立につながったのではないかなど、刃傷の遠因をこの時に求めようとする説もある。
  3. ^ 原はのちに殿中刃傷の報を国許に伝える最初の急使にも選ばれている。
  4. ^ 千代田区丸の内1-4日本工業倶楽部
  5. ^ 同様に織田家藩邸のある通りも避けている。
  6. ^ ただし金丸父子の忠見氏・中山氏との血縁はない。
  7. ^ 竜田(片桐家)浪人の家祖・堀部次郎左衛門が妻の叔父・小崎五郎左衛門(1,500石)を頼って正保四年(1647年)に熊本に来たとされる。
  1. ^ 『江戸時代人物控1000』山本博文監修、小学館、2007年、14-15頁。ISBN 978-4-09-626607-6 
  2. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 26頁。
  3. ^ 「上野介返答ニハ、拙者何之恨請候覚無之全内匠頭乱心ト相見へ申候」(「多門伝八郎覚書」)
  4. ^ 山本博文『忠臣蔵のことが面白いほどわかる本−確かな史料に基づいた、最も事実に近い本当の忠臣蔵!』中経出版 2003など
  5. ^ 谷口眞子「赤穂浪士の実像」41ページ
  6. ^ 環二通りの建設工事による(2011年、東京都)
  7. ^ 『図説 忠臣蔵』(西山松之助監修/河出書房新社))
  8. ^ 「『応円満院基煕公記』百五十二(元禄十四年自正月至三月)」。 
  9. ^ 『正親町公通卿雜話』45p(東京大学・文学部宗教学研究室)
  10. ^ 『新集赤穂義士史料』より「義士関係書状」
  11. ^ 堀田文庫『易水連快録』
  12. ^ 泉(1998) p.278
  13. ^ 山本(2012a) 第七章三節
  14. ^ 『冷光君御伝記 播磨赤穂浅野家譜』
  15. ^ 泉岳寺浅野家墓碑
  16. ^ 義士銘々傳より(発行:泉岳寺)、wikipedia「浅野長広」項目も参照
  17. ^ 山本博文『江戸の「事件現場」を歩く』
  18. ^ 足立栗園『赤穂義士評論 : 先哲』積文社
  19. ^ a b 三上参次編 国立国会図書館デジタルコレクション『寛政重修諸家譜』第2集 364p 国民図書
  20. ^ 『土芥寇讎記』東京大学史料編纂所所蔵
  21. ^ a b 戴文捷・綱川 歩美・鈴木 圭吾「『土芥寇雄記』に求められた君主像」
  22. ^ 佐藤宏之「『土芥寇讎記』における男色・女色・少年愛 : 元禄時代を読み解くひとつの手がかりとして 」
  23. ^ 『諫懲記後正』
  24. ^ 『冷光君御伝記』
  25. ^ 「忠臣蔵で江戸を探る脳を探る」月刊『TOWN-NET』、1998-99年
  26. ^ 立川昭二『江戸 病草紙―近世の病気と医療 (ちくま学芸文庫)』
  27. ^ 『和名類聚抄』
  28. ^ 『黄帝八十一難経』
  29. ^ 宮澤誠一 『赤穂浪士―紡ぎ出される「忠臣蔵」 (歴史と個性)』 三省堂
  30. ^ a b c 赤穂市『赤穂市史 第5巻』
  31. ^ 廣山堯道『赤穂塩業史』
  32. ^ 山下恭『近世後期瀬戸内塩業史の研究』思文閣出版
  33. ^ 木哲浩「赤穂藩における藩札の史料収集と研究」(日本銀行金融研究所委託研究報告 No . 4)
  34. ^ ひょうごのため池 兵庫県庁
  35. ^ 『上郡民報』2016年12月・2017年1月合併号
  36. ^ a b 西播磨県民局 光都土地改良センター『西はりま 地域をまもる水物語』
  37. ^ 相生市史編纂専門委員会 編『相生市史』第4巻 相生市
  38. ^ 兵庫県たつの市「赤穂浅野家資料」。再度の散逸防止のため非公開(教育事業部歴史文化財課)
  39. ^ 白峰旬「元禄14年の脇坂家による播磨国赤穂城在番について--播磨国龍野藩家老脇坂民部の赤穂城在番日記の分析より」
  40. ^ wikipedia記事「広島藩」「伊達政宗」なども参照
  41. ^ 「當家銘刀「美濃千寿院」ヲ選ビシカド「斯様ナ節に用フ可キニ非ズ」等激シク叱責受クル」(「北郷杢助手控之写」)
  42. ^ 「田村家家伝文書」(一関市博物館)
  43. ^ 一関藩『内匠頭御預かり一件』
  44. ^ 『伊達治家記録』(だてじけきろく)より「肯山公治家記録」
  45. ^ 山本博文「赤穂事件と四十六士 (敗者の日本史)」(吉川弘文社、2013年)
  46. ^ a b c d e f 中島康夫「赤穂義士御預始末 永青文庫特別展」中央義士会、57号、2007年
  47. ^ a b 熊本県立図書館蔵『御家譜続編』
  48. ^ 「寛文七年 極月廿七日 浅野内匠頭書状」(永青文庫所蔵)
  49. ^ 堀内伝右衛門『堀内伝右衛門覚書』
  50. ^ 堀内伝右衛門『赤穂義臣対話』
  51. ^ a b c d e 堀内伝右衛門『堀内伝右衛門覚書』
  52. ^ 堀内伝右衛門『赤穂義臣対話』
  53. ^ a b 「肥後細川家侍帳」「肥後細川藩拾遺」
  54. ^ 泉岳寺から放棄された細川家の鐘は、明治に二束三文で海外に流出した。駒澤大学名誉教授・廣瀬良弘『禅宗地方展開史の研究』(ウイーン美術館)
  55. ^ 井田泰人「熊本時代の大塚磨について」近畿大学民俗学研究所、民俗文化 (28)、2016年
  56. ^ 龍野藩家老の脇坂民部『赤穂城在番日記』に、「6月25日 昨夜(6月24日の夜)、左次兵衛が乱心にて、貞右衛門を切り殺した。」という記録がある
  57. ^ 同日記に「赤穂の子供が赤穂城の堀で釣りを行っている」ほかの記述があり、刃傷事件後には「老中・阿部正武へ明後日(6月27日)早飛脚にて大坂を経由して江戸へ遣わし公儀の沙汰待ちの所存」の旨が記載。
  58. ^ 内匠頭遺品の赤穂市への返還問題があり、たつの市は、赤穂市が主幹する「忠臣蔵サミット」参加の対象外。『平成19年 忠臣蔵サミット』資料より「忠臣蔵ゆかりの地」(赤穂市)






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