浅野長矩 遺品

浅野長矩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/24 05:26 UTC 版)

遺品

  • 「口宣案 長矩・従五位下・内匠頭」 - 浅野大学家により処分され逸書となっていたが、2006年に発見・保護管理[34]。延宝8年(1680年)の官位任命書。
  • 「赤穂郡佐用郡御年貢納帳」 - 同上。元禄5年(1692年)・同11年(1698年)、長矩治世時の両郡物成(米納)および運上(銭納)。

逸話・俗説

切腹前の辞世

『多門筆記』によれば、切腹の前に長矩は「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとかせん」という辞世を残したとしている。さらに多門の取り計らいにより、片岡高房が主君・長矩に最後に一目、目通りできたともしている。しかし、これはいずれも『多門筆記』にしか見られない記述である。『多門筆記』では、柳沢出羽守とすべきところを美濃守と書いてあったり、仙石伯耆守であるべきところが後の称である丹後守になっていたり、刃傷事件現場について「畳に夥しいほどの血が」というように大げさな記述があったりと、信用出来ない記述があまりにも多い。「多門筆記は後世の別人の作」という見方はかなり有力である。この辞世は、春風に吹かれて夜桜が散っているという情景と自らの心境を重ねたものであるが、前日の雨と強風で桜はすでに散ってしまった後の可能性が高い。

さらに『多門筆記』によれば、長矩の切腹場所が一国一城の主にあるまじき庭先であることについて、多門は庄田安利に抗議したという。しかし庄田は「副使のくせに正使である拙者に異議を唱えるな」とまともに取り合わなかったのだという。例によって多門の自称なので疑わしく見えてくるが、庄田は翌年に高家・大友義孝(吉良義央の同僚で友人)や東条冬重(吉良義央の実弟)など吉良派の旗本たちと一緒に呼び出され、「勤めがよくない」として解任されてしまっていることから、庄田が吉良寄りと思われるような態度をとったことは間違いないようである。

歓喜する赤穂領民

浅野が起こした松の廊下の事件によって赤穂藩が改易となり、それを聞いた領民が大喜びして餅をついたという話がある。この話の初出は文化3年(1806年)に刊行された伴蒿蹊の『閑田次筆』とみられている。そして『閑田次筆』に書かれている領民が喜んだという記述については以下の通りである。

  • 「或人曰く、赤穂の政務、大野氏上席にして、よろづはからひしほどに、民その聚斂にたへず、しかる間、事おこりて城を除せらるるに及びしかば、民大いに喜び、餅などつきて賑はひし大石氏出て来て事をはかり、近時、不時に借りとられし金銀など、皆それぞれに返弁せられしかば、大いに驚きて、この城中にかやうのはからひする人もありしやと、面(おもて)をあらためしとかや云々…」
  • 「ある人が言っています。赤穂の政治を大野九郎兵衛が上席で全てを仕切ったので、赤穂の庶民は税のとりたてに耐えなかったといいます。そうこうしている間に刃傷事件がおきて、城を没収されることになったので、赤穂の庶民は大いに喜んで餅などをついて大賑いをしました。そこへ大石内蔵助が出てきて政務を行うようになり、困った時に赤穂藩が借りていた金銀を皆に返済したので赤穂の人は、大変驚いて赤穂藩にこのような立派なことをする人もいたのか、と考えを改めたということです」

ただし、この『閑田次筆』は、浅野が刀傷事件を起こした元禄14年(1701年)からおよそ100年後の文化3年(1806年)に刊行されたものであること。そして、本文中に「ある人曰く」とあるように、領民が大喜びしたという話の出所がまったく不明であるなど、史料的に信憑性に欠ける要素が複数見られるため、これらの話は俗説の域を出ないものとされている。

浅野が切腹した後の当時の赤穂城とその城下町の様子を伝えるものとしては、赤穂城の受け取りの正使を務めた脇坂安照の家臣で、赤穂城で受け取りと在番の実質的指揮をとった龍野藩家老の脇坂民部の日記『赤穂城在番日記』が現存している。この『赤穂城在番日記』には、当時の赤穂城の受け取りから脇坂民部らの在番が終わるまでの仔細が書かれている。日記には城の受け取りが終わり、脇坂民部らが在番となってから、赤穂の子供が赤穂城の堀で釣りを行っていることなどは書かれているが、赤穂の領民が改易となって喜んでいる様子などは書かれておらず、そうした様子が当時の赤穂で見られなかったことがわかっている[35]

他の大名との関係

伊達家

浅野長政伊達政宗との因縁から、浅野・伊達家は江戸時代を通じて不仲であった[36]。赤穂浅野家と吉田伊達家も同役でありながら、意思疎通を密にした記録は見られない。しかし、浅野長矩の治世の節で挙げられているように、赤穂藩で行われていた塩水濃縮法による入浜塩田法の技術提供・技術導入の支援などが仙台藩に対しても行われていたため、赤穂浅野家と仙台伊達家に限っていえば、不仲であった確証はない[26]

ただ、長矩の切腹に関して伊達一門の一関藩田村家は、非常に厳しい対応をした記録が残る。長矩は着用していた大紋を脱がされ、収容された座敷のふすまを釘付けにするなどしていたという。酒や煙草を出すようにという長矩の要求も拒絶された。また庭先で筵の上で切腹させる、介錯に使おうと田村家伝来の由緒ある刀を家臣が持ち出してきたので藩主・建顕が激怒した[37]、切腹した場所には今後誰も近づかないよう藩士に厳命した[38]、長矩の遺言を隠したともいわれる[39]

また、元禄15年(1703年)の元禄赤穂事件では、伊達綱村は仙台藩邸前に兵を待機させ義士の通行を阻止している[40]。赤穂義士は伊達家[注釈 7]の藩邸を通らない経路で泉岳寺へ引き上げた[41]

細川家

浪士遺族の登用

熊本藩細川家4代目の細川綱利は、若くして赤穂藩の藩主となった浅野内匠頭の後見をしていたとされる[42]。そうした関係性を示す史料としては、細川綱利の事績を記録した『御家譜続編』があり、そこには「十三箇条の諌言書」が納められている[43][42]。「十三箇条の諌言書」は浅野内匠頭15歳、細川綱利39歳の時に、浅野に対して細川が大名としての心構え・ありかたなどを説き、戒めたもので、内容としては治世や家臣の処遇・日常生活の有り方・身の処し方などを細かく説いており、若くして家督を継いだ浅野の後見役を当時の細川が担っていたことを示すものである[42]。またこの他に、『御家譜続編』には、「平権兵衛宛ての書状」が納められており、書状には、細川綱利が浅野内匠頭に召し抱えてる小姓の処遇について諌言している様子などが見える[43][42]。そして「平権兵衛宛ての書状」と同日に出された「細川綱利に宛てた浅野内匠頭の書状」には、「理由も聞かずに小姓を手放し、(細川殿に)預けろとは合点がいかないので、理由を聞かせて欲しい。その上で、適切に処遇は決める」といった内容の浅野側からの返答が書かれており、浅野が成長してからも両者の関係性は依然と変わらず継続し、維持されながらも、両者とも忌憚のない文面で書状のやり取りを行っていた様子が見える[42]

なお、上記の「細川綱利に宛てた浅野内匠頭の書状」は、旧熊本藩主細川家伝来の美術品・歴史資料を収蔵し、展示している永青文庫にて保存・展示されている。

こうした関係にあったことから、浅野内匠頭の死後、赤穂浪士たちが討ち入りを行うと、細川綱利は大石内蔵助以下17名の浪士を請け取り、主君に忠を尽くした浪士を厚遇した[44][45]

その厚遇ぶりは以下のようであった。

  • 細川家での赤穂浪士の待遇は行き届いたもので、細川家に着いた晩に、一同には小袖二枚ずつ与えられ、歳暮には更に一枚と帯などが与えられた[46]
  • 食事は手のかかった御馳走で、二汁五菜のほか、菓子や夜食なども出され、後には酒まで出された。酒は「薬酒」という名目で出された[46]
  • あまりの御馳走に、大石を始めとした赤穂浪士の面々から、「我ら浪人して軽い物ばかり食べており申したが、当家に参ってからは結構な御料理ゆえ、腹にもたれてなりませぬ。唯今は麦飯に塩いわしが恋しくなり申した。何卒御料理を、軽い物にお願い申したい」と申し入れがあった。しかしながら、世話をしていた堀内伝右衛門が料理方に掛け合ったが、料理方は怒り出す始末で、ついに一同の希望は実現されなかったという[46]
  • 風呂や手水場の取り扱いも丁寧で、風呂の湯は一人ごとに変え、手水の際には、一人ずつ坊主が水をかけた[46]
  • これらのあまりにも丁寧すぎる処遇に、赤穂浪士達から簡略にしてほしいと申入れを行ったほどだった[46]
  • 細川邸では、潮田や両大石(良雄・信清)らは、羽目を外して夜に狂言踊りなどをして騒ぎ、提供された酒を接待役の堀内に、たらふく飲ませて酩酊させたりしている。最後の日には堀内が酒の肴や煙草、下戸向けの茶や菓子を出さなかったので義士たちから文句が出た。(細川家文書『堀内伝右衛門覚書』)
  • 義士らの切腹は白金屋敷の大書院の舞台脇、手水石の向かいで行なわれた。その後、赤穂浪士達がいた大書院の間を清めようと畳替えをすることになったが、細川綱利は「十七人の勇者共は御屋敷のよき守神」として、畳を替えることを許さなかった。家来衆はそれに深く感じ入った。なぜなら、お預かりの他の三家は場所を清め、仙石家に至っては畳から障子まで全て替えたからであった。この後、細川綱利は気心の知れた客人には切腹の場所を名所として見せたという[47]

しかし、延享4年(1747年)江戸城中で細川宗孝が板倉勝該に斬殺されたのち、赤穂浪士の墓や供養施設が悉く破却されており、当時の遺構は殆ど残っていない(墓の台座部分と供養塔の残滓(角が丸くなり刻銘が消滅した石)と思われる石の集まりがある)[48]。ただし、赤穂浪士の遺髪については、細川家で赤穂浪士の接待役を担当した堀内伝右衛門が主君の綱利に申し出て赤穂浪士の遺髪を懇願してもらい受けている。その遺髪は堀内伝右衛門の菩提寺である日輪寺に埋葬され、その際に堀内によって建てられた供養塔・遺髪塔は綱利の死後に伝右衛門が家老・三宅藤兵衛により処罰されたのちも守られ、現存している。戦後、毎年2月4日の義士命日には「義士まつり」が行われ、遺髪塔前で慰霊祭が行われていた[48]が、2022年現在は休止している。

こうした細川家に預けられた赤穂浪士の待遇の話などは、細川家で赤穂浪士を親身になって世話した接待役の一人、足軽大将の堀内伝右衛門が書いた『赤穂義臣対話』・『堀内伝右衛門覚書』などに書かれている。

しかし、後世には諸事情により評価を豹変させ(ただし山鹿市の日輪寺は、内密に浪士の菩提を守り続けて今日に至る)、泉岳寺は報復として熊本藩細川家から寄進された梵鐘を廃棄した[49]。 なお、細川家では堀部金丸の切腹後、堀部武庸の跡を継いだ堀部言真[注釈 8](文五郎)が、同族の熊本堀部氏が仕えている細川家[注釈 9]に召し抱えられ、堀部家(文五郎家)はそれ以降、代々、細川家に仕えて、明治維新を迎えている[42]。そして、明治以降の堀部家には、明治27年(1894年)に第九国立銀行の頭取となった堀部直臣などがいる[50]

脇坂家

脇坂安照は、長矩の居城である赤穂城受け取りの正使を務めている。また、その後1年半の間、同城の在番を務めている。

元禄14年(1701年)6月25日、城にて藩主の名代として在番の指揮を執っていた重臣の脇坂左次兵衛が乱心して、同僚の貞右衛門を切り殺すという事件が起こっている(脇坂赤穂事件)[51]。このためか脇坂家は隣接する赤穂の加増も困難になり[52]、永井直敬が赤穂藩主として入ることになる。それでもなお、たつの市は長矩ゆかりの品を多数保持し、赤穂浅野家の散佚責任を理由に一般公開もしていない[53]

徳川一門

高松藩松平頼常は、「内匠頭乱心同然ノ仕業二ツキ、御仕置二仰付ラレ候」と述べている[54]尾張藩の記録には、「只殿中狼藉ノ趣ニテ切腹ナレバ誰二対シ恨ヲ述ン」とあり、『易水連快録』では「長矩ハ益ナキ事ヲ仕出シ申サレ候へバ、先祖末代マデノ不義ニト唱へケル」と記されている[55]


  1. ^ 従五位下叙位の口宣案(辞令)。
    口宣案
    上卿 小倉大納言
    延寳八年八月十八日 宣旨
    源長矩
    宜叙從五位下
    藏人頭左近衞權中將宗顯
    訓読文
    上卿(しゃうけい) 小倉大納言
    延宝8年(1680年)8月18日宣旨。
    源長矩、宜しく従五位下に叙すべし。
    蔵人頭左近衛権中将(藤原)宗顕(松木宗顕)、奉(うけたまは)る。(若狭野浅野家文書(たつの市立龍野歴史文化資料館所蔵)より)
  2. ^ 内匠頭任官の口宣案(辞令)。
    口宣案
    上卿 小倉大納言
    延寳八年八月十八日 宣旨
    從五位下源長矩
    宜任内匠頭
    藏人頭左近衞權中將宗顯
    訓読文
    上卿 小倉大納言。
    延宝8年(1680年)8月18日宣旨。
    従五位下源長矩、宜しく内匠頭に任ずべし。
    蔵人頭左近衛権中将(藤原)宗顕、奉る。(若狭野浅野家文書(たつの市立龍野歴史文化資料館所蔵)より)
  3. ^ 正林の祖母と長矩の祖母が姉妹(共に板倉重宗の娘)。
  4. ^ 元禄11年9月6日1698年10月9日)に発生した江戸の大火の際、吉良義央は鍛冶橋邸を全焼させて失ったが、このとき消防の指揮を執っていたのは浅野長矩であった。長矩が吉良家の旧邸を守らなかったことで吉良の不興を買い、後の対立につながったのではないかなど、刃傷の遠因をこの時に求めようとする説もある。
  5. ^ 原はのちに殿中刃傷の報を国許に伝える最初の急使にも選ばれている。
  6. ^ 千代田区丸の内1-4日本工業倶楽部
  7. ^ 同様に織田家藩邸のある通りも避けている。
  8. ^ ただし金丸父子の忠見氏・中山氏との血縁は無い。
  9. ^ 竜田(片桐家)浪人の家祖・堀部次郎左衛門が妻の叔父・小崎五郎左衛門(1,500石)を頼って正保四年(1647年)に熊本に来たとされる。
  1. ^ 『江戸時代人物控1000』山本博文監修、小学館、2007年、14-15頁。ISBN 978-4-09-626607-6 
  2. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 26頁。
  3. ^ 「上野介返答ニハ、拙者何之恨請候覚無之全内匠頭乱心ト相見へ申候」(「多門伝八郎覚書」)
  4. ^ 山本博文『忠臣蔵のことが面白いほどわかる本−確かな史料に基づいた、最も事実に近い本当の忠臣蔵!』中経出版 2003など
  5. ^ 谷口眞子「赤穂浪士の実像」41ページ
  6. ^ 環二通りの建設工事による(2011年、東京都)
  7. ^ 『図説 忠臣蔵』(西山松之助監修/河出書房新社))
  8. ^ 泉(1998) p.278
  9. ^ 山本(2012a) 第七章三節
  10. ^ 『冷光君御伝記 播磨赤穂浅野家譜』
  11. ^ 泉岳寺浅野家墓碑
  12. ^ 義士銘々傳より(発行:泉岳寺)、wikipedia「浅野長広」項目も参照
  13. ^ 山本博文『江戸の「事件現場」を歩く』
  14. ^ 足立栗園『赤穂義士評論 : 先哲』積文社
  15. ^ a b 三上参次編 国立国会図書館デジタルコレクション『寛政重修諸家譜』第2集 364p 国民図書
  16. ^ 『土芥寇讎記』東京大学史料編纂所所蔵
  17. ^ a b 戴文捷・綱川 歩美・鈴木 圭吾「『土芥寇雄記』に求められた君主像」
  18. ^ 佐藤宏之「『土芥寇讎記』における男色・女色・少年愛 : 元禄時代を読み解くひとつの手がかりとして 」
  19. ^ 『諫懲記後正』
  20. ^ 『冷光君御伝記』
  21. ^ 「忠臣蔵で江戸を探る脳を探る」月刊『TOWN-NET』、1998-99年
  22. ^ 立川昭二『江戸 病草紙―近世の病気と医療 (ちくま学芸文庫)』
  23. ^ 『和名類聚抄』
  24. ^ 『黄帝八十一難経』
  25. ^ 宮澤誠一 『赤穂浪士―紡ぎ出される「忠臣蔵」 (歴史と個性)』 三省堂
  26. ^ a b c 赤穂市『赤穂市史 第5巻』
  27. ^ 廣山堯道『赤穂塩業史』
  28. ^ 山下恭『近世後期瀬戸内塩業史の研究』思文閣出版
  29. ^ 木哲浩「赤穂藩における藩札の史料収集と研究」(日本銀行金融研究所委託研究報告 No . 4)
  30. ^ ひょうごのため池 兵庫県庁
  31. ^ 『上郡民報』2016年12月・2017年1月合併号
  32. ^ a b 西播磨県民局 光都土地改良センター『西はりま 地域をまもる水物語』
  33. ^ 相生市史編纂専門委員会 編『相生市史』第4巻 相生市
  34. ^ 兵庫県たつの市「赤穂浅野家資料」。再度の散逸防止のため非公開(教育事業部歴史文化財課)
  35. ^ 白峰旬「元禄14年の脇坂家による播磨国赤穂城在番について--播磨国龍野藩家老脇坂民部の赤穂城在番日記の分析より」
  36. ^ wikipedia記事「広島藩」「伊達政宗」なども参照
  37. ^ 「當家銘刀「美濃千寿院」ヲ選ビシカド「斯様ナ節に用フ可キニ非ズ」等激シク叱責受クル」(「北郷杢助手控之写」)
  38. ^ 「田村家家伝文書」(一関市博物館)
  39. ^ 一関藩『内匠頭御預かり一件』
  40. ^ 『伊達治家記録』(だてじけきろく)より「肯山公治家記録」
  41. ^ 山本博文「赤穂事件と四十六士 (敗者の日本史)」(吉川弘文社、2013年)
  42. ^ a b c d e f 中島康夫「赤穂義士御預始末 永青文庫特別展」中央義士会、57号、2007年
  43. ^ a b 熊本県立図書館蔵『御家譜続編』
  44. ^ 堀内伝右衛門『堀内伝右衛門覚書』
  45. ^ 堀内伝右衛門『赤穂義臣対話』
  46. ^ a b c d e 堀内伝右衛門『堀内伝右衛門覚書』
  47. ^ 堀内伝右衛門『赤穂義臣対話』
  48. ^ a b 「肥後細川家侍帳」「肥後細川藩拾遺」
  49. ^ 泉岳寺から放棄された細川家の鐘は、明治に二束三文で海外に流出した。駒澤大学名誉教授・廣瀬良弘『禅宗地方展開史の研究』(ウイーン美術館)
  50. ^ 井田泰人「熊本時代の大塚磨について」近畿大学民俗学研究所、民俗文化 (28)、2016年
  51. ^ 龍野藩家老の脇坂民部『赤穂城在番日記』に、「6月25日 昨夜(6月24日の夜)、左次兵衛が乱心にて、貞右衛門を切り殺した。」という記録がある
  52. ^ 同日記に「赤穂の子供が赤穂城の堀で釣りを行っている」ほかの記述があり、刃傷事件後には「老中・阿部正武へ明後日(6月27日)早飛脚にて大坂を経由して江戸へ遣わし公儀の沙汰待ちの所存」の旨が記載。
  53. ^ 内匠頭遺品の赤穂市への返還問題があり、たつの市は、赤穂市が主幹する「忠臣蔵サミット」参加の対象外。『平成19年 忠臣蔵サミット』資料より「忠臣蔵ゆかりの地」(赤穂市)
  54. ^ 『新集赤穂義士史料』より「義士関係書状」
  55. ^ 堀田文庫『易水連快録』






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