松田氏 小田原北条氏臣 松田氏

松田氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/31 06:58 UTC 版)

小田原北条氏臣 松田氏

相模松田氏は藤原鎌足を遠祖とし、その13代目藤原公光の時に相模となり相模国秦野に土着した。14代藤原経範は波多野に改姓し、波多野氏の開祖となった。

19代義常は松田郷に住む。その子有常は松田を称して松田次郎と名乗り、松田氏の始祖となった。当時波多野氏から分かれた一族は松田の他に河村、広沢、大友、菖蒲、沼田、大槻、小磯、宇治などがある。

当初波多野、松田一族は源氏方であり、波多野義通は京都に上って源義朝に仕えていたが、1156年保元の乱後、旧主である義朝の父・源為義を殺さなければならない羽目になって義朝との間が不和になり、相模国に帰国。こうした経緯により、源氏の没落と共に平家方に付いた。

義常は治承4年(1180年石橋山の戦いでは大庭景親と共に頼朝軍を破り、頼朝の鎌倉入りの際にも一族と共に松田城に籠り抗戦をしたが、義常は頼朝に追われ自害をした。義常の嫡男松田有常はこの時、大庭景義の懐島の屋敷にいて難を逃れた。源頼朝の腹違いの兄・源朝長の母(坊門姫)は義常の叔母でもあり、大庭景義は頼朝の父義朝の重臣で、鎌倉幕府の長老であった。松田有常は大庭景義の外甥でもあったので、景義は義常誅伐のことを事前に察知していて、密かに保護を加えたものである。後に大庭景義は松田有常を伴って頼朝の元に参上して許され、後に松田郷を与えられ、松田次郎を名乗り松田氏が起こった。

承元4年(1210年)相模国丸小川で小早川、土肥らの一族と争う[46]和田義盛三浦義村によって鎮圧された。建暦3年(1213年)の和田合戦では和田義盛に味方した者が松田一族より多数見受けられる。

元弘3年/正慶2年(1333年新田義貞が鎌倉幕府を討つ為に武蔵国に入り分倍河原の戦いで鎌倉北条軍に敗れた後、松田一族は相模国の同志軍と共に新田義貞軍に参陣。

南北朝時代に於いては南朝方の後醍醐天皇に味方し、新田義貞軍に組した。新田義貞の没後、新田義興脇屋義治軍総勢6,000騎が松田城、河村城や西丹沢の諸城に移り、これを足利尊氏自ら大軍を率いて攻め込んできたので、足柄の地は一大戦場と化した。この頃松田一族は各地に分散し、備前松田氏は北朝方の室町幕府に属していた。

室町時代の後半になると関東公方足利氏が衰微しており、8代松田頼秀は京都に居住していたが、将軍の命で関東に下向した。その頃、相模国では大森氏小田原城を占拠して諸家を征服、松田氏にも攻略の手を加えてきた。扇谷上杉氏と大森氏の進攻に苦戦をしていたが、1495年伊勢盛時大森藤頼を倒して小田原城に入城した時に松田頼秀が協力した。伊勢盛時と、奉行衆松田氏、奉公衆備前松田氏、相模松田氏は同じ幕臣として協同しており、この時に備前松田氏と奉行衆松田氏からは松田数秀、松田長秀、松田頼亮、松田秀致、松田晴秀らが応援に駆け付けた。(「関侍伝」には、頼秀・数秀・長秀・頼亮・秀致・盛秀・晴秀の名が記載されているが、このうち頼秀・数秀・晴秀は年代的にも整合性がないため再考を要する)

そのように後に後北条氏となる地域権力の確立に当初から協力してきた相模松田氏は北条家家臣団として御由緒家七家に列し、家老職を勤める。北条氏家臣団中最高の2798貫110文(松田一族では3922貫995文)の所領高であった。

10代松田憲秀に至って松田氏は全盛に達し、北条家の重代の筆頭家老として権勢並ぶものが無かったという。[47]

天正18年(1590年豊臣秀吉小田原征伐の時に際し、憲秀は「豊臣方22万に対し北条方は5万と劣勢にあって勝ち目の無い野戦は無謀である」と、小田原城中の評定に於いて籠城策を主張する。これに対して北条氏照北条氏邦は野戦を主張したが、憲秀の籠城策が採られた。一方憲秀は「北条家に相模の国と伊豆二国の安堵と全員の助命を条件」として開城する事で独自に前田利家堀秀政と戦後処理についての駆け引きをしていた。ところが、豊臣秀吉は小田原城内の混乱を狙って憲秀内通との戦略的噂を吹聴した。このことがあって間もなく小田原城は開城した。

北条氏滅亡後、松田氏は交渉をしていた前田氏に4,000石で召抱えられた。その後石高に変化はあるが、1871年廃藩置県まで加賀藩臣として存在した。

憲秀の弟松田康定の後裔は徳川家康に仕え旗本として存続した。

系譜


注釈

  1. ^ 奉公衆波多野氏一族とは別の家系であることが判明している[2]
  2. ^ 丹後松田氏の出自が藤原姓公親流であるという説の根拠であると思われるが、丹後松田系図にある平姓の公親とは年代的にも別人である。
  3. ^ 後宇多天皇の御匣として仕えたのち、後宇多天皇の側妃となったとする説が多いが、年代や他の史料などから鑑みると後宇多天皇の出家と前後して崩御した後二条天皇(後宇多天皇の第一皇子)の後宮であった可能性も否定できない。
  4. ^ 『言継卿記』大永7年10月24日条に侍所開闔松田頼興(対馬守亮致の初名)が足利義晴の出陣に兵200を率いて従ったこと、同天文14年6月17日条に祇園祭の際に発生した喧嘩騒ぎを侍所開闔松田盛秀(対馬守)が300人を動員して鎮圧したことが記されている。

出典

  1. ^ 東寺百合文書(室町幕府過所)丹後守平朝臣(松田晴秀)
  2. ^ a b 榎原雅治「<研究報告>新出「丹後松田系図」および松田氏の検討」(PDF)『東京大学史料編纂所研究紀要』第4巻、東京大学、1993年、89-104頁、ISSN 09172416NAID 110000538968 
  3. ^ 福永酔剣『日本刀大百科事典』 1巻、雄山閣、1993年、126頁。ISBN 4-639-01202-0 
  4. ^ 松田長秀
  5. ^ 国立国会図書館:松田丹後守長秀記
  6. ^ 武政規範 - 東京国立博物館デジタルライブラリー
  7. ^ [書写者不明]『武政軌範』[書写者不明]、1---。hdl:2324/1001419922CRID 1130000793773492992https://hdl.handle.net/2324/1001419922  巻末に「右武政軌範者松田豊前守真筆」とあり]
  8. ^ 続群書類従 16上(和歌部):松田丹後守平貞秀集(和歌集)
  9. ^ 鎌倉文化研究会『鎌倉』123号游酔庵文庫蔵『松田丹後守長秀記』遠藤 明子”. 2018年12月22日閲覧。
  10. ^ コトバンク「松田長秀」”. 2018年12月22日閲覧。
  11. ^ 田中誠「康永三年における室町幕府引付方改編について」(PDF)『立命館文學』624号(杉橋隆夫教授退職記念論集)、立命館大学、2012年1月、712-722頁、ISSN 02877015NAID 110009512391 
  12. ^ 八坂神社文書「祇園会山鉾事」:今度御再興巳後、山鉾次第町人等諍論之間、鬮取次第也、前々日町人等来愚邸鬮取之、雑色等来入申付之(松田頼亮)
  13. ^ 慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス 小熊英二研究会京都における文化変容の可能性ー祇園祭の事例からー
  14. ^ 奈良大教授 河内将芳氏 2017年10月4日付 中外日報(論)
  15. ^ 鷹山の歴史 ―山の形態変化を中心に―(公益財団法人祇園祭山鉾連合会)
  16. ^ 平安京から京都へ-その都市民の歴史- 五島 邦治
  17. ^ 京都市 編「祇園会の再興」『近世の胎動』学芸書林〈京都の歴史 第3巻〉、1968年、603頁。 
  18. ^ 脇田春子『中世京都と祇園祭』吉川弘文館〈読みなおす日本史〉、2016年。 
  19. ^ 早稲田大学図書館 松田丹後守貞秀所蔵太刀:松田氏之子孫ハ立入左京亮・・・の追加注釈がある。
  20. ^ 設楽薫「室町幕府奉行人松田丹後守流の世系と家伝史料 ―「松田長秀記」の成立について―」『室町時代研究』第2号、東京大学史料編纂所、2008年、10頁。 
  21. ^ 京都市歴史資料館 京都の史料12「禁裏御倉職立入家文書」
  22. ^ 「城郭探訪」立入城 近江国(守山)
  23. ^ 京都府・市町村共同 統合型地理情報システム(GIS)日ケ谷城跡(遺跡番号:1)
  24. ^ 山城賛歌 日ヶ谷城跡(京都府宮津市)
  25. ^ 国立国会図書館:「与謝郡史.上」 
  26. ^ 国立国会図書館:「与謝郡史.下」日ケ谷城(266/500) 
  27. ^ 「丹後の地名」金剛心院(宮津市日置)
  28. ^ 小堀遠州・本阿弥光悦
  29. ^ 奉行衆#その後
  30. ^ 京都市姓氏歴史人物大辞典編集委員会 京都市姓氏歴史人物大辞典
  31. ^ 藤井學「<論説>近世初頭における京都町衆の法華信仰 (特集 : 都市研究)」『史林』第41巻第6号、史学研究会 (京都大学文学部内)、1958年11月、520-541頁、doi:10.14989/shirin_41_520hdl:2433/249377ISSN 0386-9369NAID 120006818155  p.528 より
  32. ^ 国史大辞典 第12巻(ふ~ほ):「本阿弥家」
  33. ^ 林屋辰三郎『日本史論聚』 5巻、岩波書店、1988年、74頁https://books.google.co.jp/books?id=rmmwAAAAIAAJ&q=%E6%9C%AC%E9%98%BF%E5%BC%A5%E3%80%80%E6%9D%BE%E7%94%B0&dq=%E6%9C%AC%E9%98%BF%E5%BC%A5%E3%80%80%E6%9D%BE%E7%94%B0&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwj9-9yewZXXAhWFXLwKHfoLAI4Q6AEIQjAG 
  34. ^ 河村昭一『南北朝・室町期一色氏の権力構造』戎光祥出版〈戎光祥研究叢書 8〉、2016年6月、280頁。 
  35. ^ 『官職制度沿革史』著者: 小中村清矩
  36. ^ 田中誠「室町幕府奉行人在職考証稿(1) -元弘3年(1333)~康永3年(1344)-」(PDF)『立命館文學』第651号、立命館大学人文学会、2017年3月、1110-1090頁、ISSN 0287-7015NAID 40021181219 
  37. ^ 玉蟲敏子、内田篤呉、赤沼多佳『もっと知りたい本阿弥光悦 生涯と作品』東京美術、2015年9月、10頁。 
  38. ^ 国史大辞典 第12巻(ふ~ほ):「奉行」の項
  39. ^ 「光悦考」十五代 樂吉左衛門(淡交社):P16[菅原氏松田本阿弥家図]、P19[推定本阿弥家系譜]
  40. ^ 京都府・市町村共同 統合型地理情報システム(GIS)松田遺跡(遺跡番号:6531)
  41. ^ 京都府・市町村共同 統合型地理情報システム(GIS)松田城跡(遺跡番号:6729)
  42. ^ 「丹後の地名」京丹後市大宮町河辺
  43. ^ 山家浩樹二「室町幕府前期における奉行人の所領」『室町時代研究』第2号、東京大学史料編纂所、2008年、203頁。 
  44. ^ 「一色軍記」
  45. ^ 「丹後一色氏の家臣団」梅本正幸、一色正人”. 2018年12月23日閲覧。
  46. ^ 『吾妻鏡』承元4年6月3日条
  47. ^ 関八州古戦録


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