建仁寺
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歴史
日本に臨済宗を正式に伝えたのは栄西であるとされている。栄西は永治元年(1141年)、備中国に生まれた。13歳で比叡山に上り翌年得度(出家)。仁安3年(1168年)と文治3年(1187年)の2回、南宋に渡航した。1度目の渡宋はわずか半年であったが、2度目の渡宋の際、臨済宗黄龍派(おうりょうは)の虚庵懐敞(きあんえじょう)に参禅した。
建久2年(1191年)、虚庵から印可(師匠の法を嗣いだという証明)を得て帰国する。当時、京都では比叡山延暦寺の勢力が強大で、禅寺を開くことは困難であった。栄西は初め九州博多に聖福寺を建て、のち鎌倉に移り、北条政子の援助で正治2年(1200年)に建立された寿福寺の開山となる。
その2年後の建仁2年(1202年)、鎌倉幕府2代将軍源頼家の援助を得て、元号を寺号とし、京都における臨済宗の拠点として建立されたのが建仁寺である。伽藍は宋の百丈山に擬して造営された。
創建当時の建仁寺は真言院・止観院を構え、天台・真言・禅宗の3宗並立であった。これは当時の京都では真言、天台の既存宗派の勢力が強大だったことが背景にある。
寛元4年(1246年)6月と翌寛元5年(1247年)、そして建長8年(1256年)7月に焼失し衰微した。しかし、正嘉元年(1258年)5月、東福寺開山の円爾(聖一国師)が当山に入寺し仏殿などを復興する。翌、正元元年(1259年)には宋僧の蘭渓道隆が11世住職として入寺し、臨済禅道場となりこの頃から純粋禅の寺院となる。文永2年(1265年)には臨済禅寺となり、寺名を建寧寺に改名する。
暦応3年(1340年)10月には佐々木道誉による妙法院焼き討ちの際に輪蔵、開山堂、塔頭瑞法庵などが類焼している。
康安元年(1361年)南北朝の戦乱に巻き込まれた幼少期の足利義満の避難先となった。
応永4年(1397年)11月、焼失。応仁の乱に巻き込まれて焼失。文明13年(1481年)にも炎上している。当寺は火災が多く創建当時の建物は残っていない。
天正年間(1573年 - 1592年)に安国寺恵瓊が復興に努め、江戸時代にも修理が継続して行われた[1]。
慶長19年(1614年)には徳川家康により寺領820石が安堵されている。
明治元年(1868年)には廃仏毀釈により34院あった塔頭が14院となった。
1934年(昭和9年)9月21日、室戸台風接近による強風のため庫裏が倒壊[2]。
当寺の西にはかつての鎮守社であった京都ゑびす神社がある。
注釈
- ^ 相伴客の捧げる天目碗に、僧侶が立ったまま浄瓶の湯を注ぎ、右手の茶筅で茶を点てる。『別冊太陽 栄西と臨済禅 禅宗寺院の古式茶礼を伝える』禅文化研究所監修 平凡社発行 2014年 p53-55
出典
- ^ 京都府歴史遺産研究会編『京都府の歴史散歩中』山川出版社、2011年、p.136
- ^ 京都でも多数が校舎の下敷きに『大阪毎日新聞』昭和9年9月21日号外(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p228 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 「関雪年表」(白沙村荘 橋本関雪記念館公式サイト)
- ^ 華蔵界 第37号 臨済宗建仁寺派宗務本院発行 2013年3月
- ^ 『臨済宗大本山 建仁寺』2016年パンフレット
- ^ 『京都の禅寺散歩』竹貫元勝 雄山閣出版 1994年7月発行
- ^ 京都府歴史遺産研究会編『京都府の歴史散歩 中』山川出版社、2011年、p.137
- ^ 佐和隆研ほか編『京都大事典』淡交社、1984年、p.981
- ^ 特別展 栄西と建仁寺(東京国立博物館・読売新聞社・NHK・NHKプロモーション 2014)
- ^ 平成29年9月15日文部科学省告示第117号
- ^ 国宝・重要文化財の指定について(文化庁サイト)
- ^ 京都府指定・登録文化財
- ^ 四頭茶会案内パンフレット 大本山建仁寺発行 2014年
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