天守
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/29 01:20 UTC 版)
歴史
起源
名称、様式・形式が何から由来しているかについての結論は出ていない。
初期の頃は物見櫓・司令塔・攻城戦の最終防御設備としての要素が強かったが、織田信長の近畿平定の頃からは遠方からでも見望できる華麗な権力を象徴する建造物という色彩が濃くなっていったものとも考えられている。
西ヶ谷恭弘は、吉野ヶ里遺跡などにあった楼観や戦国時代の井楼(せいろう)などの仮設の高層建築に城郭の象徴となる建物の起源を求めている。そのような象徴的に建てられたものを最初に“てんしゅ”と呼んだのは室町幕府第15代将軍足利義昭の御所であった室町第に建てられた天主であるというものである[13]。一方、三浦正幸は、天守の起源を井楼などに求めず、中世の城郭などに建てられた恒久的な高層で大型の礎石建物であるとし、それを“てんしゅ”と呼んだ建物には信長に関係があるとしている[14]。
一般的に今日見られる本格的な5重以上の天守の最初のものとされているのは織田信長が天正7年(1579年)に建造した安土城(滋賀県近江八幡市安土町)の天主であるといわれる。ただし、天守のような象徴的な建物は安土城以前にまったくなかったわけではなく、陸奥国府や鎮守府が置かれた多賀城の正殿や楠木正成の千早城、望楼櫓や1469年前後の江戸城にあった太田道灌の静勝軒、摂津国人の伊丹氏の居城伊丹城(兵庫県伊丹市)[15]、また松永久秀が永禄年間(1558年 - 1569年)に築いた大和多聞山城や信貴山城の四階櫓、さらに柴田勝家が1575年に築いた北ノ庄城の7重(一説には9重)のものなどが各地に建てられていた。天守のような建物が初めて造られた城はわかっておらず、伊丹城、楽田城、多聞山城などが古文献などを根拠に天守の初見として挙げられているが、具体的な遺構などは不詳であり、いずれも天守の初見であるとの立証が難しくなっている。
発展
そのように、建てられてきた城の象徴的な高層建築、いわゆる天守をさらに流行させたのは豊臣秀吉である。豊臣秀吉により大坂城・伏見城と相次いで豪華な天守が造営されると、それを手本に各地の大名が自身の城に高層の天守を造営させた。このように天守は、織田信長、豊臣秀吉の織豊政権下において発達した「織豊系城郭」に顕著に見られることから、織豊系城郭の特徴のひとつにあげられる[16]。また、この時代に活躍した天守造営の名手として中井大和守正清・岡部又右衛門などが挙げられる。
豊臣政権が衰退し始めると徳川家康の下、徳川氏の名古屋城を始めに諸大名が姫路城などの豊臣大坂城を超える大規模で装飾的な天守を造営していった。しかし、3代家光の武家諸法度の発布以降は「天守」と付く高層の天守建築は原則として造られなくなる。
衰退
1609年に中国・西国大名が城普請を盛んに行っている報告を家康が受け、これに対して良い感想を抱かなかったとある。具体的な史料は確認できないが、この前後より5重以上の天守は「遠慮」の対象となったと考えられ、以降に造られた小倉城(1610年)では4重目屋根を造らず5階平面を張り出させ5重となることを回避している。元和元年(1615年)徳川幕府による一国一城令により幕府の許可なく新たな築城、城の改修・補修ができなくなり、天守も同様に許可なく新たに造営することが禁じられた。
これ以降も同様に、津山城(1616年)や福山城(1622年)のように4重目の屋根を庇とみなして事実上の五重天守でありながら名目上四重天守とするものや、高松城(1669年)のように内部5階建てでありながら外観を3重とするものなどが造られた。また、伊予国の松山城のように5重の天守を3重に改築するものもあった。また、天守を意識して建てられた大規模な三重櫓も天守という名称をはばかり、御三階櫓などと呼んだ。
江戸期になり平和な時代が訪れると、城は防衛の役目を終え政庁へと変化していったので、天守の役目も終わり、城は次第に御殿や二の丸・三の丸が拡充されていった。
明治以降
明治維新の後は、城郭や陣屋にあった建物は天守も、民間によってあるいは、軍事施設・土地としての接収によってほとんどは払い下げ、破却されたが、中には市民運動や公人・軍関係者などの保存の働きかけなどによって保存された天守がある。保存される経緯に、城主がそのまま所有者となったため保存されることになった犬山城天守や、民間(個人)では解体工事にかかる費用が払えないという理由で残ったといわれる姫路城の建造物群のような事例は稀である。そのように保存された天守は、沖縄の首里城正殿(天守ではない)を含んでも21城だけであった。
その後、西南戦争などの内乱や太平洋戦争末期には日本本土空襲や沖縄戦によって首里城を含む8城が焼失又は倒壊し、戦後に松前城天守が失火により焼失して、現在は12城の天守が残る。太平洋戦争などで焼失した旧国宝の天守をコンクリート造りなどによって外観復元する事業が戦後活発に行われ、現在でも各地で天守などを当時の工法によって城跡を旧状に復興・復元しようとする運動がある。
注釈
出典
- ^ 西ヶ谷恭弘監修、枻出版社編『再入門 オトナのための城』(別冊Discovery Japan)枻出版社、2015年、ISBN 978-4-7779-3660-1
- ^ お城からの手紙vol.29
- ^ a b c d 三浦正幸『城のつくり方図典』小学館、 2005年、ISBN 4-09-626091-6
- ^ 内藤昌編著『城の日本史』講談社、 2011年
- ^ a b 城戸久『城と民家』毎日新聞社、1972年
- ^ 田中義成「天守閣考」『史学会雑誌』新年号、1890年
- ^ 宮上茂隆『復元模型 安土城』草思社、 1995年、 ISBN 4-7942-0634-8
- ^ a b c d e f g h i j k l m 服部英雄. “名古屋城天守考・天守はなぜ高いのか”. 名古屋市. 2021年4月10日閲覧。
- ^ a b c d e 西ヶ谷恭弘監修『復原 名城天守』学習研究社, 1996年,ISBN 4-05-500160-6
- ^ 内藤昌『復元安土城』講談社、 2006年
- ^ NHKスペシャル「安土城」プロジェクト 『信長の夢「安土城」発掘』
- ^ 西ヶ谷恭弘『定本 日本城郭事典』
- ^ 西ヶ谷恭弘監修『日本の城』世界文化社、1997年
- ^ a b c 三浦正幸監修『【決定版】図解・天守のすべて』学習研究社、2007年、ISBN 978-4-05-604634-2
- ^ 天文12年(1543年)に記された『細川両家記』の永正18年(1521年)2月17日の条
- ^ 木戸雅寿「城から見た 秀吉の遠方支配」石井正明ほか執筆『秀吉の城と戦略』成美堂、1998年
- ^ 加藤理文編『城の見方・歩き方』新人物往来社、 2002年、 ISBN 4-404-03003-7
- ^ 全国城郭管理者協議会編『城のしおり』全国城郭管理者協議会 2005年
- ^ 坂井秀弥・本中眞 編『野外復元 日本の歴史』新人物往来社、1998年
- ^ a b 学習研究社編『歴史群像シリーズ よみがえる 日本の城 30』学習研究社、 2006年
- ^ 掛川市商工観光課発行「掛川城パンフレット」
- ^ “台風で落城した、小阪城が復活!NHK「修繕屋」の手でよみがえる”. 週刊ひがしおおさか (2019年1月6日). 2023年9月29日閲覧。
- ^ “「尾道城」の解体検討 市、観光施設整備へ”. 中国新聞アルファ. (2018年2月17日). オリジナルの2018年2月18日時点におけるアーカイブ。 2020年5月15日閲覧。
- ^ a b c “「尾道城」の解体 年内にも着手”. 中国新聞デジタル (2019年11月22日). 2019年12月18日閲覧。
- ^ [国道221号沿い、こんな所になぜ城が…出身男性が半世紀かけた夢 “国道221号沿い、こんな所になぜ城が…出身男性が半世紀かけた夢”]. 讀賣新聞. (2022年4月7日)2023年3月5日閲覧。
- ^ 地域交流センター 施設概要2018年、常総市
- ^ 茶色一面、必死の救助作業=屋上やベランダ、助け待つ姿-濁流のみ込まれた常総上空2015年9月10日 時事通信 Amebaニュース
- ^ 公益法人等の詳細 法人コード:A024887 法人の名称:一般財団法人佐和山三成会 法人番号(JCN)9160005004889 「事業の概要(3)佐和山遊園(工作物の展示施設)の管理、運営に関する活動」とある。公益法人データベース 総務省
- ^ “痕跡一掃、居城「見せしめ」破壊…発掘で裏付け”. 毎日新聞. (2016年3月25日) 2017年7月4日閲覧。
- ^ 石田三成の佐和山城、徳川に破壊尽くされていた 彦根市教委調査で明らかに、産経WEST、2016年3月26日
- ^ しろうや!広島城 第15号 - 広島城
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