大木喬任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/04 01:56 UTC 版)
経歴
出自
肥前国佐賀藩の45石の藩士大木知喬の長男として赤松町(現在の佐賀市水ヶ江三丁目)に生まれる。天保13年(1842年)父、知喬が亡くなり、以降、母シカ子の手で育てられる。
幕末
藩校の弘道館で学び、1850年(嘉永3年)副島種臣らと共に枝吉神陽の義祭同盟結成に参加。後に江藤新平や大隈重信らも加わり藩論を尊皇攘夷へと導くことを図るが果たせなかった。万延元年(1860年)藩校弘道館から選ばれて江戸遊学の途に上る。
明治新政府
1868年(明治元年)に新政府が樹立されると、大隈・副島・江藤らとともに出仕し、徴士、参与、軍務官判事、東京府知事などを務めた。江戸を東京とすること(東京奠都)に尽力した。1871年(明治4年)に民部卿、文部卿として学制を制定。1872年(明治5年)に教部卿を兼任。1873年(明治6年)、参議兼司法卿。1876年(明治9年)の神風連の乱と萩の乱の事後処理に当たった。
戸籍編成の主導権を巡り大蔵省の大隈と対立。大久保利通の側近となり、民部大輔として戸籍法制定を行い、のち民部卿に任命されるが、大隈の巻き返しで民部省は大蔵省に統合された。民法編纂総裁として法典編纂に関わる。のち元老院議長、参議などの要職を歴任した。
1884年(明治17年)、華族令施行によって伯爵に叙せられた。12月14日学習院講堂で開かれた大日本教育会の常集会で森有礼とともに演説を行った[2]。1888年(明治21年)に枢密顧問官、1892年(明治25年)に枢密院議長再任。 しかし同年11月、修身教科書秘密漏洩事件が発生。引責辞任を余儀なくされ、以後、麝香間祗候にとどまった[3]。
1899年(明治32年)に死去、享年67。
- ^ 朝日日本歴史人物事典「大木喬任」
- ^ 『澤柳柳太郎と帝国教育会-成城大学』
- ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、519頁。ISBN 978-4-06-288001-5。
- ^ 『江藤南白』P640
- ^ [1]
- ^ 『国民過去帳 明治之巻』(尚古房、1935年)p.281
- ^ 大木喬任夫人『明治大臣の夫人』岩崎徂堂 (大学館, 1903)
- ^ 岡崎えん日本人名大辞典
- ^ 『官報』第993号「叙任及辞令」1886年10月20日。
- ^ 『官報』第3893号「叙任及辞令」1896年6月22日。
- ^ 中野文庫 - 旧・勲一等旭日大綬章受章者一覧(戦前の部)
- ^ 『官報』第307号、「叙任及辞令」1884年07月08日。
- ^ 中野文庫 - 旧・勲一等旭日桐花大綬章受章者一覧
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