大奥
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予算
大奥経費は全て勘定所が管理していた。必要品購入の代金は広敷役人から勘定所へ伝えられ、勘定所から実際の支出がなされていた。大奥経費は幕府の財政支出全体の3~8%であったと見られている。それでも1年で20万両程度であったと言われている。和宮降嫁後の文久2年(1862年)には45万両を超えたが、慶応2年(1866年)に17万両にまで削減された[15]。
主な大奥の女性
- お江与の方 - 2代将軍徳川秀忠の御台所、徳川家光・千姫・忠長・和子などの母。崇源院。お江・小督とも表記するが、達子・徳子とも称された。浅井長政の娘。淀殿の妹。
- お静の方 - 徳川秀忠の側室。秀忠の乳母・大姥局の侍女。保科正之の生母。浄光院。
- 大姥局 - 徳川秀忠の乳母。草創期の大奥で権勢を誇った。
- 民部卿局 - お江与の方の乳母。江戸城では御台所付き筆頭老女。
- 春日局 - 徳川家光の乳母。斎藤利三の娘で、本名は斎藤福。法度を改正するなどして、大奥を組織的に整備した。
- 祖心尼 - 義理の叔母春日局(血縁では父の従姉妹)の補佐役。素心尼とも表記する。
- 朝倉清 - 徳川忠長の乳母。夫は忠長の御附家老・朝倉宣正。出家して昌清尼。
- 本理院 - 家光の御台所。鷹司孝子。家光と不仲で、大奥には入らず中の丸御殿に別居したため「中の丸殿」と称せられる。
- お振の方 - 家光の最初の側室。千代姫の生母。自証院。
- 永光院 - 家光の側室。お万の方。大上臈。春日局の死後、家光より「春日同様」に奥向きを取締まるよう命じられる。
- 宝樹院 - 家光の側室、徳川家綱の生母。お楽の方。本名のお蘭の音が「乱」に通じるため、改名された。
- 順性院 - 家光の側室、甲府藩主徳川綱重(徳川家宣の実父)の生母。お夏の方。
- 桂昌院 - 家光の側室、徳川綱吉の生母。お玉の方。大奥女中の頃の出仕名は「秋野」。
- 定光院 - 家光の側室、お里佐の方。
- 天樹院 - 家光の長姉。出家後は竹橋御殿に住み、大奥には居住しなかったが、家光~家綱の大奥最高顧問として重きをなした。
- 按察使局(あぜちのつぼね) - お江与の方の侍女。のち家光から家綱の時代に大上臈として仕えた。土佐国司・一条家の娘。
- 矢島局 - 4代将軍徳川家綱付きの御年寄。
- 三沢局 - 4代将軍徳川家綱の乳母。近江小室藩主・小堀政一(遠州)の側室。将軍付き御年寄。
- 近江局 - 徳川家綱の将軍付き御年寄。
- 浅宮顕子 - 徳川家綱の御台所。伏見宮家。
- お振の方 - 徳川家綱の最初の側室。養春院。
- お満流(まる)の方 - 徳川家綱の側室。円明院。
- 鷹司信子 - 5代将軍徳川綱吉の御台所。左大臣従一位・鷹司教平の娘。浄光院。
- お伝の方 - 徳川綱吉の側室。瑞春院。鶴姫・徳松の生母。小谷の方・五の丸(三の丸)殿とも称せられる。
- 右衛門佐局 - 綱吉長女・鶴姫付き上臈[16]、のち将軍綱吉付きの筆頭上臈御年寄として大奥を取り仕切った。
- 寿光院 - 徳川綱吉の側室。大典侍局。大奥ではなく、北の丸に住んだため「北の丸殿」と呼ばれた。清閑寺大納言家。
- 竹姫 - 大典侍局の姪。その養女となり江戸城北の丸に入る。8代吉宗の時代、薩摩藩主・島津継豊の継室となる。浄岸院。
- 新典侍 - 徳川綱吉の側室。落飾後、清心院と号したが、密通が発覚、蟄居処分。公家日野家出身。
- 豊原 - 右衛門佐亡き後の将軍付きの筆頭御年寄、のち上臈御年寄。綱吉から家継まで3代に仕え、大奥を取り仕切った。
- 天英院 - 徳川家宣の御台所。近衛煕子。6代家宣から8代吉宗にかけての大奥首座。父は近衛基熙、母は常子内親王。
- 月光院 - 徳川家宣の側室、7代将軍徳川家継の生母。家宣時代は、お喜世の方・左京の方・三の御部屋様と呼ばれた。
- 江島 - 徳川家継時代の月光院付き御年寄。江島生島事件で失脚。「絵島」の表記は後世の脚色。本名みよ。
- 法心院 - 徳川家宣の側室。お古牟の方。一の御部屋様・右近の方と称される。
- 蓮浄院 - 徳川家宣の側室。お須免の方。二の御部屋様・新典侍局と称される。実家は公家園池家。
- 本光院 - 徳川家宣の側室。いつきの方。お浜御殿の番人の娘。大奥入り後は「斎宮」と称される。
- 浄円院 - 8代将軍徳川吉宗の生母。お紋の方・お由利の方。紀州藩主徳川光貞の側室。
- 真宮理子 - 徳川吉宗の紀州藩5代藩主のころの正室(御簾中)。伏見宮家。
- 本徳院 - 徳川吉宗の側室。お古牟の方。田安徳川家初代当主・徳川宗武の母。
- 深心院 - 徳川吉宗の側室。お梅の方。一橋徳川家初代当主・徳川宗尹の母。
- 覚樹院 - 徳川吉宗の側室。お久免の方。もと浄円院の侍女。
- 比宮増子 - 9代将軍徳川家重の正室。西の丸御簾中のころ早世。伏見宮家。
- お幸(こう)の方 - 徳川家重の側室。10代将軍徳川家治の生母。御台所増子付きの上臈御年寄。公家・梅渓家出身。至心院。
- 安祥院 - 徳川家重の側室。御三卿・清水家の初代・徳川重好の生母。お遊の方・お遊喜の方・お逸の方・お千瀬の方とも。
- 松島 - 徳川家治の乳母、将軍付きの筆頭御年寄。
- 玉沢 - 徳川家治の時代に勢力をはった御年寄。
- お知保の方 - 徳川家治の側室。継嗣・家基の生母。蓮光院。
- 心観院 - 徳川家治の御台所。閑院宮家の五十宮倫子。
- 広橋-家治の御台所五十宮倫付きの上臈御年寄。
- 広大院 - 11代将軍徳川家斉の御台所。近衛寔子(ただこ)。実家は島津家(篤姫・茂姫)。実父は薩摩藩主島津重豪。
- 桂川てや - 広大院付き御中﨟。大奥火事の際、老女花町を救助しようとして焼死した。のち「大奥女中の鑑」と讃えられた。
- お富の方 - 家斉の生母。もと大奥女中。一橋治済の側室。家斉将軍就任と共に再び大奥入りをし、絶大な権力を奮う。
- 大崎 - 家斉付き御年寄。松平定信の老中就任に尽力したが後に対立して、大奥を退去。
- 高岳 - 家斉時代の将軍付き筆頭老女。上臈御年寄。
- 唐橋 - 家斉時代の上臈御年寄。家斉の娘・種姫付きとなり、輿入れ先の水戸藩小石原邸奥向きに入る。本名は高松種子。
- お満の方 - 徳川家斉の側室。淑姫の生母。お万・お満武とも。勢真院。
- お楽の方 - 徳川家斉の側室。12代将軍徳川家慶の生母。お照・お里衛の方とも称される。
- お美代の方 - 徳川家斉の側室。専行院。溶姫などの生母。
- お登勢の方 - 徳川家斉の側室。峰姫・紀伊斉順らの生母。妙操院。
- お八重の方 - 徳川家斉の側室。初名はお美尾の方。落飾後、大奥から二の丸に転居。清水斉明らの生母。
- お瑠璃の方 - 徳川家斉の側室。尾張斉温、泰姫らの生母。青蓮院。
- お蝶の方 - 徳川家斉の側室。徳川斉荘、和姫らの生母。速成院。
- お筆の方 - 徳川家斉の側室。浅姫の生母。芳心院。
- お袖の方 - 徳川家斉の側室。徳川斉彊らの生母。本性院。
- お以登の方 - 徳川家斉の側室。永姫・松平斉善・松平斉省・松平斉宣らの生母。本輪院。
- 姉小路 - 12代将軍徳川家慶付き上臈御年寄。家慶時代に勢力をはった。橋本勝子(伊予子)。和宮の大叔母。落飾して勝光院。
- 楽宮(さざのみや)喬子 - 徳川家慶の御台所。有栖川宮家。浄観院。
- 万里小路局 - 徳川家斉から徳川家茂まで4代にわたり筆頭老女。将軍付き上臈御年寄。実家は池尻大納言家。本名は壽賀。
- 三保野 - 徳川家斉から家慶にかけての大奥女中。御錠口から御中﨟。
- 本寿院 - 徳川家慶の側室、13代将軍徳川家定の生母。お美津の方。
- お波奈の方 - 徳川家慶の側室。米姫・暉姫らの生母。
- 秋月院 - 徳川家慶の側室。名は、お露(津由)の方。
- お琴の方 - 徳川家慶の側室。落飾後、妙音院と号して、桜田御用屋敷に移るが、大工と密通事件をおこし、頓死する。
- 歌橋 - 13代徳川家定の乳母。将軍付き上臈御年寄。
- お志賀の方 - 徳川家定の側室(将軍付き御中﨟)。豊倹院。
- 瀧山 - 13代徳川家定時代から15代徳川慶喜時代の将軍付き筆頭御年寄。
- 鷹司任子(あつこ) - 徳川家定がまだ家祥と名乗っていた将軍世子時代に迎えた最初の御簾中(正室)。天親院。父は関白鷹司政煕
- 一条秀子 - 徳川家定がまだ家祥と名乗っていた将軍世子時代に迎えた2人目の御簾中(正室)。澄心院。父は関白一条忠良。
- 天璋院 - 徳川家定の3人目の正室。近衛敬子(篤君)。島津篤姫。実父は島津忠剛。養父は島津斉彬・右大臣近衛忠煕。
- 常磐井 - 天璋院付きの上臈御年寄。初名は高辻。初め御簾中秀子付き。
- 幾島 - 天璋院付きの筆頭御年寄。本名は朝倉糸。初め藤田と名乗り、島津斉宣の娘で近衛忠煕に嫁いだ郁姫付き。
- 初瀬 - 天璋院付きの御年寄。初め御簾中秀子付き中年寄。
- 川井 - 天璋院付きの中年寄。
- 歌川 - 天璋院付きの中年寄。
- 袖村 - 天璋院付きの御中﨟筆頭。
- 福田 - 天璋院付きの表使い。
- 実成院 - 徳川家茂の生母。お操(美佐)の方。紀州藩主・徳川斉順の側室。
- 和宮 - 徳川家茂の御台所。親子内親王。落飾後は静寛院。仁孝天皇皇女、孝明天皇の妹。
- 観行院 - 和宮の生母。橋本経子。仁孝天皇の側室(新典侍)。和宮降嫁に従い、大奥に入る。
- 庭田嗣子 - 和宮付きの筆頭上臈・宰相典侍。もと禁裏御常御殿の女官。大奥でも「宰相典侍」の女官名で通した。
- 橋本麗子 - 和宮付きの上臈御年寄。和宮の従姉にあたる。大納言典侍と称して出仕。
- 土御門藤子 - 和宮付きの上臈御年寄。大奥での名前は「桃の井」。
- 鴨脚(いちょう)克子 - 和宮付きの大奥女中。もと禁裏御常御殿の命婦(能登局)、大奥での名は「岩瀬」。宮中復帰後は竹命婦。
- 田中藤 - 和宮の乳母。橋本実麗邸で和宮を養育し、和宮の内親王宣下に伴い、「少進」の名前を賜る。宮と共に大奥入りする。
- 村山ませ子 - 天璋院付きの御中﨟。筆頭御年寄・瀧山の姪。
- 佐々鎮子 - 家慶から慶喜まで4代にわたって御次として仕えた奥女中。特に天璋院の身の回りの世話をしていたことで知られる。
明治の大奥もの
解雇された女中たちは面白おかしく大奥内情を暴露[独自研究?]した。ただし、これらの資料は事実と虚構が入り混じっている。[要出典]
- 『旧事諮問録』 明治24年(1881年) - 大奥の中﨟・箕浦はな子の口述
- 『千代田之大奥』上下 明治25年(1882年)
- 『大奥の女中』上下 明治27年(1884年)
- 『お局生活』明治の女官 明治40年(1907年)
- 『御殿生活』6篇、桜井秀 明治44年(1911年) - 旗本の回想
- 『御殿女中』 三田村鳶魚、昭和5年(1930年) - 元八王子千人同心の家に生まれた
注釈
- ^ 東海道二川宿の「御休泊記録」には、薩摩藩の奥女中を「薩州奥女中」や「薩州大奥女中」などと記している。一説によれば、中奥あるいはそれに類する空間が存在する場合、それと区分するために「大奥」という名称が用いられたと唱えられている。
- ^ 表と奥の概念は公家の館が規範になっている。儀礼や対面など〈晴〉の場である寝殿が「表」、日常生活である〈褻〉の場としての常御殿が「奥」に対応する。この区分は足利将軍の邸宅である花の御所や豊臣秀吉の大坂城で確認されている[4]。
- ^ 静寛院宮の使者として京都に派遣された土御門藤子は、謝罪の実があるならば徳川家を存続させる可能性もあるという朝廷の内意を引き出している。
- ^ 天璋院の嘆願書を受け取った西郷隆盛は、嘆願を受け入れる旨の連絡を天璋院に入れている。
- ^ 文久3年(1863年)の火災で本丸は焼失して再建されなかったため、明治維新まで西丸が本丸の代わりとして用いられた。大奥も西丸に増築されたという。
- ^ 天璋院は、家茂将軍就任後も本丸御殿に留まり、和宮降嫁後もしばらくは本丸御殿に住んでいたと考えられる。
- ^ これらの呼称は時代によって異なる。
- ^ 文書における桂昌院の名前は御台所・鷹司信子よりも先に銘記されており、官位面でも信子より上であった。
- ^ 「側室」は武家諸法度で大名の一夫一妻制が定められた後に成立した概念で、複数の妻が公認されていた家康の時代に遡らせるのは不適切とする福田千鶴の説もある(家康の側室とされているうちの何人かは正室と同格である「別妻」であった可能性が高い)。
- ^ 自身の生前には正式な側室として認められていない。
- ^ もっとも、江戸城以外の奥向には取締という役名が存在した可能性がある。畑尚子著『徳川政権下の大奥と奥女中』では、水野家老女・千代山が万延元年に奥向取締になったことが述べられている[14]。
- ^ 姉小路については、将軍家慶とのただならぬ関係を主張する説も存在している[要出典]。
- ^ このことは、大奥老女の人事異動が将軍の代替わりにほとんど影響されていないことからも明らかである。
出典
- ^ “将軍家のプライベートサロン!江戸時代の大奥の構造はどのようになっていたの?”. Japaaan. LINE NEWS (2019年7月15日). 2019年7月15日閲覧。
- ^ 徳川「大奥」事典, p. 4.
- ^ 畑尚子 2009, pp. 21–23.
- ^ 新人物往来社『歴史読本』2011年3月号P140-146「信長・秀吉の奥と将軍の大奥」
- ^ 徳川「大奥」事典, pp. 7–8.
- ^ 新人物往来社『歴史読本』2011年3月号 P128-138「江戸城大奥の基礎はいつ作られたのか」
- ^ 知らなかった!? 大奥の秘密, p. 26.
- ^ 徳川「大奥」事典, pp. 9–10.
- ^ 畑尚子 2009, pp. 31–32.
- ^ 徳川「大奥」事典, pp. 95–97.
- ^ 徳川「大奥」事典, p. 101.
- ^ 畑尚子 2009, p. 183.
- ^ “江戸城 大奥御殿向惣絵図(色彩図)”. 2011年2月19日閲覧。 : 日本建築学会図書館・妻木文庫蔵。
- ^ 畑尚子 2009, p. 221.
- ^ 徳川「大奥」事典, pp. 116–117.
- ^ 『鶴姫君様御婚礼御用』『鶴姫様御婚礼書物』(国立公文書館所蔵)
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