土器
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土器(どき、英語: earthenware)は、粘土に水を加え、こねて練り固めることによって成形し、焼き固めることで仕上げた容器である[1][2][注釈 1]。
注釈
- ^ 粘土を焼いて作られるものであっても、容器でないものは「土製品」「瓦器」と称される[1]。
- ^ この場合、野焼きを行う穴を「焼成坑」と呼ぶ[4]。
- ^ なお、西洋では陶器と磁器の区別は日本や中国と異なり明確ではなく、英語のポーセリン(porcelain)は「白い」陶磁器を称し、中国・朝鮮・日本では磁器(瓷器)とみなされている青磁は、英語ではストーンウェア(stoneware)と称される[11]。一方、ポーセリンには、軟質(「軟質磁器」)と硬質(「硬質磁器」)の区別を設ける。
- ^ 秋田県男鹿半島などでは、木製の箱に焼石を投げ込んで魚貝を煮て食べる石焼料理の土俗例が現在にも残っている[19]。
- ^ 小林達雄は、人間が満腹するほどの生米を食べるとすれば、おいしくないというだけではなく、たちまち下痢の症状を引き起こすであろうという例を引いて、これを説明している[20]。米の場合は、加熱によってβデンプンがαデンプンに変わり、劇的に消化しやすくなるのである[20]。
- ^ 小林達雄は、遊動的生活を基本とする旧石器時代人は、極端にいえば、毎晩欠かさずに寝るための巣づくりをするような行動が習性となっており、特定の場所に対するこだわりはなかったとしている[22]。西田正規は、『定住革命』(1986年)のなかで、人類の定住化は長い遊動的な生活の延長線上にあるものではなく、また、遊動的生活の体験の蓄積から結果として生じた新しい生活様式でもなく、むしろ人間の決断の意志を前提とするものであったことを強調している[21]。
- ^ 旧河川の川底とみなされる場所に棒杭を立てた遺構が、各地の縄文時代の遺跡から検出されている[20]。エリ漁は現代でも琵琶湖などでおこなわれている。
- ^ ドルニー・ヴェストニツェ遺跡ではマンモスの化石が出土しており、また、合葬墓がみつかったことでも著名な遺跡である。
- ^ 粘土は、乾燥によって湿分を失うときは、分子相互が密着するため、相当程度硬く締まり、この性質を利用して作られたものを粘土製品という[1]。日干しの土偶や古代メソポタミアの日干し煉瓦などが代表的な粘土製品であり、楔形文字の刻まれた粘土板も、粘土が本来持つ可塑性と湿分放散に伴う凝結性との双方を活用したものといえる[1]。
- ^ これを「目止め」という。米のとぎ汁や小麦粉を溶かした水を一煮立ちさせても同様の効果がある[38]。
- ^ 繊維土器は、焼成温度が低い場合には、繊維が完全に焼失してしまうことはなく、黒い炭化物となって胎土の内部に残ることが多く、それは土器の断面観察によって確かめられる[39]。
- ^ 日本では、ナデ整形は各種のナデが縄文草創期ですでにみられ、ケズリ整形・ミガキ整形は縄文早期以降にみられる。木目のギザギザが器面に細かい筋としてのこるハケ整形は、弥生時代より本格的に始まる。タタキは、大陸起源の整形法で弥生の早期に出現して後期以降に普及した[40]。
- ^ 彩色土器のうち、その彩色が焼成後にほどこされたものを塗彩土器、本焼ないし締焼の前になされたものを彩文土器として区別することがある[39]。
- ^ 中国の事例では、土器全体に占める彩文土器の比率は高くなく、そのほとんどは盛付用や貯蔵用であるところから特殊な容器として扱われていただろうと推測される[46]。これは、古代ギリシや古代ローマの絵付陶器が冠婚葬祭や宴会、奉納などに限られ、日常用には無文陶器や青銅容器を用いていた事実とも合致する[46]。
- ^ アスファルトは石器や骨角器の装着の際の接着剤としても用いられた[51]。
- ^ 最古の土器製塩は縄文後期後葉、関東地方の霞ケ浦周辺においてであり、やや遅れて東北地方の松島湾沿岸でも盛行する[56]。松島湾の土器製塩は関東で土器製塩が行われなくなって以降も行われ、弥生中期まで続いた[56]。弥生中期末、備讃瀬戸の児島地方で興った土器製塩は岡山県・香川県の本土地方さらには淡路島や近畿地方西部へと広範囲に広がった[56]。
- ^ 山内清男は1935年頃に縄文土器の編年の見通しを立て、1937年、全国的規模の「山内編年表」を発表した。たとえば、大木10式(中期)、加曽利B式(後期)、田戸下層式(早期)といった型式名は、発掘調査をおこなった遺跡から出土した土器に、その遺跡の地名をとって名づけた[64]。たとえば、大木10式土器とは、宮城県七ヶ浜町の大木囲貝塚から出土した土器を古いものから順に数字を付したものである[65]。大規模な遺跡では、広い調査区にいくつかの種類の遺物や遺構が混在するため、調査地点を細分する必要があり、加曽利B式土器とは、千葉市の加曽利貝塚B地点出土の土器を標準として名づけたものである[64]。田戸下層式土器は横須賀市の田戸遺跡の層位が命名の由来となっている[64]。このように、土器型式名は層位学的研究を土台としており、型式命名のもととなった遺跡を標式遺跡と呼ぶ。こうした手法は、弥生土器、土師器、須恵器の分野における土器研究でも応用された。
- ^ 須恵器の胎土分析を精力的に行ってきた三辻利一は、分析可能な元素のなかでも、ルビジウムとストロンチウムの蛍光X線の波高に地域的偏差を生じやすいことを確認し、この方法を採用している[66]。
- ^ エブルル様式文化は、かつて「ケニア・カプサ文化」と呼ばれた時期があり、それはチュニジアからアルジェリア内陸部にかけての中石器時代から新石器時代にかけてのカプサ文化との石器の類似からつけられた名称であるが、現代では、「ケニア・カプサ文化」と称された文化と北アフリカの「カプサ文化」の間はまったく関係がないと考えられている[68]。
- ^ この標章は、後代の地方行政単位であるノモスの標章に類似するものがあり、この時期にノモスの成立もしくは萌芽があったことを示唆している[72]。
- ^ 幅6 - 7メートルに対して長さが20メートル程度という家屋であり、場合によっては40メートルを超す場合もあった。こうしたロングハウスは、いずれも長軸を北西—南東方向にもつという共通点がある[89]。
- ^ メソポタミアではウバイド期に併行し、インダス地域ではシェーリ・ハーン・タラカイ文化、アムリー文化、ハークラー文化が成立した[90]。
- ^ シンド地方・ゴーマル・、バンヌ・西部パンジャーブ州ではコート・ディジー文化、東部パンジャーブ地方ではソーティ・シースワール文化、また、ガンガー平原では「先ハラッパー文化」と称される文化が、それぞれ営まれた[90]。
- ^ 縄文草創期において九州地方南部は採集経済の早熟的な発展がみられ、文化創造の先頭に立っていたが、鬼界カルデラの爆発を受けて壊滅的な打撃を受け、以後、文化創造の中心は東北地方などの東日本に移った[52]。
- ^ 一方で、東北地方からも滋賀里式など西日本系の縄文晩期土器が出土しており、相互交流が考えられる[107]。
- ^ なお、縄文土器の中には後代に茶道具に転用されたものが存在するという[108]
- ^ かつてアメリカ大陸では、磨製石器が紀元前5000年 - 前4000年頃の「古期」に始まり、土器製作は農耕とともに紀元前4000年 - 前3000年頃の「形成期」に始まったとされてきた[122]。ただし、現在では時代名称と年代について見直しがなされている。詳細は「メソアメリカの編年」を参照。
- ^ この土器については、自刃する人を表しているのではないかという見方もある[135]。
- ^ 「アパート様式」は、スペイン建築と融合してプエブロ復活建築という様式を生み出した。
出典
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